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	<title>ディスペンセイション主義 | エマオ出版</title>
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	<description>ディスペンセイション主義に立った出版社です</description>
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	<title>ディスペンセイション主義 | エマオ出版</title>
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		<title>ディスペンセイション主義の必須条件</title>
		<link>https://emmaus-press.com/2024/10/25/sinequanon/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[emao]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 25 Oct 2024 07:40:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ディスペンセイション主義]]></category>
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					<description><![CDATA[ディスペンセイション主義の必須条件 Charles. C. Ryrie ディスペンセイション主義者と、そうでない者とを区別するのは何でしょうか。この体系の必須条件（絶対的に必要な部分）は何でしょうか。この質問に答えるため [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h1 class="wp-block-heading has-text-align-center">ディスペンセイション主義の必須条件</h1>



<h5 class="wp-block-heading has-text-align-center">Charles. C. Ryrie</h5>


<div class="wp-block-image is-style-default">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img fetchpriority="high" decoding="async" width="1024" height="769" src="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2022/09/aaron-burden-5Gvfl330xcQ-unsplash1-1024x769.jpg" alt="" class="wp-image-2396" style="width:535px" srcset="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2022/09/aaron-burden-5Gvfl330xcQ-unsplash1-1024x769.jpg 1024w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2022/09/aaron-burden-5Gvfl330xcQ-unsplash1-300x225.jpg 300w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2022/09/aaron-burden-5Gvfl330xcQ-unsplash1-768x577.jpg 768w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2022/09/aaron-burden-5Gvfl330xcQ-unsplash1-1536x1154.jpg 1536w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2022/09/aaron-burden-5Gvfl330xcQ-unsplash1.jpg 2000w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></figure>
</div>


<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>ディスペンセイション主義者と、そうでない者とを区別するのは何でしょうか。この体系の必須条件（絶対的に必要な部分）は何でしょうか。この質問に答えるためには、後に考察する議論を先取りしなければならないのですが、ここで答えておくことが適切だと思います。</p>



<p>理論的には、この必須条件は、神がこの世界の出来事を支配するにあたって、互いに区別される異なった摂理を持っておられるという事実を認めるかどうかにかかっています。契約神学者たちは、恵みの契約の遂行の中に様々なディスペンセイションがあると言います（彼らもディスペンセイションという言葉を使います）。例えばチャールズ・ホッジは、アダムの堕罪後に四つのディスペンセイションがあると言います。それは、アダムからアブラハム、アブラハムからモーセ、モーセからキリスト、キリストから終末です。ベルコフは先に見たように、旧約と新約という、ただ二つのディスペンセイションしか記していませんが、旧約の中に四つの期間があることを認めており、それら全てが恵みの契約の多様性であるとしています。言い換えるなら、いくつかのディスペンセイションがあることを信じ、それらの間に啓示の漸進性を認めても、ディスペンセイション主義者でないこともあり得るということです。</p>



<p>ディスペンセイション主義の要点は、ディスペンセイションの数でしょうか。いいえ、それはこの体系の主要な問題ではありません。そのことについては次の章で議論します。スコフィールドは七つのディスペンセイションがあると教え、ホッジは四つを教えたことで、前者がディスペンセイション主義者となり、後者がそうでなくなるのではありません。</p>



<p>では、千年期前再臨主義という問題が決定要因なのでしょうか。やはり答えは「いいえ」となります。なぜなら、千年期前再臨主義者であっても、明らかにディスペンセイション主義者でない人々がいるからです。千年期前再臨主義に立つ契約神学者たちは、恵みの契約と救済論中心の神の目的という考えを固持しています。彼らが千年王国という考えを持っていても、その根拠を旧約聖書の預言の中に見いだすことはまれです。彼らの考える御国は、ディスペンセイション主義者たちの教える御国とは明らかに異なります。それは彼らが、御国に関する旧約聖書の約束を軽視した結果、御国の持つユダヤ的特質の多くを見失っているからです。千年期前再臨主義者の契約神学者たちの多くは、患難期後再臨主義者でもありますが、それは非ディスペンセイション主義的アプローチの必然的付随と言えます。いずれにせよ、千年期前再臨主義者が必ずしもディスペンセイション主義者というわけではありません（しかし、その逆は真です。ディスペンセイション主義者は必ず千年期前再臨主義者です）。</p>



<p>では、ディスペンセイション主義の必須条件は何でしょうか。答えは三つです。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p><strong>１．ディスペンセイション主義者はイスラエルと教会の区別を保ちます。</strong>このことは、ディスペンセイション主義に友好的な者たちと、敵対する者たちとから、それぞれ異なった言い方で表現されています。フラーはこう述べています。「ディスペンセイション主義の基本的前提は、神には二つの目的があり、それは永遠に区別される二つの民の構成において表明される。」ゲバライン（A. C. Gaebelein）は「ユダヤ人と異邦人と神の教会」という異なる表現で述べています。チェイファーは以下のように要約しています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>ディスペンセイション主義者の信条は、諸時代を通じて、神が異なる二つの目的を遂行しておられるということである。一つは地上に関することであって、地上の民と地上の目的を含んでいる。それがすなわちユダヤ教である。もう一つは天に関することであって、天の民と天の目的を含んでいる。それがすなわちキリスト信仰である。……この見解に対して、部分的なディスペンセイション主義者は、明白な区別をかろうじて認めはするが、神がただ一つの事柄、すなわち善と悪との一般的な分離のみを行っておられるという仮定に基づいて自らの解釈を施すのである。この限定的学説の生み出す様々な混乱にもかかわらず、彼らは地上の民が天の民と合併すると主張し、地上の計画に霊的な解釈を施すか、あるいは、これを完全に無視するのである。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>これは恐らく、人がディスペンセイション主義者であるかどうかを明らかにする、最も基本的な神学的テストであり、最も実際的かつ決定的だと断言できます。イスラエルと教会との区別を一貫して行わない者は、ディスペンセイション主義的区分をしているとは言えず、これを一貫して行う者がディスペンセイション主義者なのです。</p>



<p>イスラエルに対する神の目的と教会に対する神の目的は、聖書の中で最も注目されている事柄ですが、神はその他のグループに対する目的をも持っておられます。神は御使いたちに対する目的を持っておられ、それはイスラエルや教会に対する目的とは、決して混同されるべきではありません（Ⅱペテロ2:4、黙示4:11）。神はまた、神を拒む者たちに対する計画を持っておられ、それもまた他の目的と区別されなければなりません（黙示16:4）。神は諸国民に対する計画をも持っておられ、それは新しいエルサレムにおいても継続します（黙示22:2）。これら諸国民はキリストの花嫁と区別されています。このように、神は二つ以上の目的を持っておられますが、神はイスラエルに対する目的と教会に対する目的を、他のグループについてよりも多く啓示しておられます。</p>



<p>プログレッシブ・ディスペンセイション主義者は、この概念が、異邦人、イスラエル、ユダヤ人、という概念によって伝達されるものとは同種類でないという言い方をして、これらの区別をあいまいにしています。その意味するところは不明瞭です（第９章での詳しい議論を参照してください）。いずれにせよ、イスラエルと教会との古典的な区別が、これまでよりも不明瞭な含みを持っていることは間違いありません。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p><strong>２．イスラエルと教会という区別は、一般に字義的解釈と呼ばれる釈義体系から生まれます。</strong>それゆえ、ディスペンセイション主義の必須条件の第二番目は、歴史的・文法的釈義の問題です。字義的という言葉よりも、通常の、平易な、という言葉の方が良いように思われますが、何と呼ぶにせよ、それは非ディスペンセイション主義的解釈がしばしば行う、比喩的、寓話的解釈をしません。比喩的解釈がどの程度施されるにせよ、それが解釈体系の中に存在しているなら、それは非ディスペンセイション主義的アプローチであることを示しています。</p>



<p>一貫した字義的で平易な解釈こそ、聖書に対するディスペンセイション主義的アプローチを示しています。ですから、ディスペンセイション主義的解釈の原動力とも言うべき、この一貫性こそが、非ディスペンセイション主義者たちをいら立たせ、彼らの嘲笑の対象ともなるようです。確かに、字義的・歴史的・文法的釈義は、ディスペンセイション主義者だけの専有物でも習慣でもありませんが、これを聖書解釈の全ての分野に一貫して適応することこそ、ディスペンセイション主義者の独壇場なのです。それは、字義的解釈の基本的枠組みの中での、型・たとえ・黙示・様々なジャンルといったものを妨害や排除するものではありません。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p><strong>３．</strong>ディスペンセイション主義の必須条件の第三番目は、やや専門的な問題なので、後ほど詳細に議論します（第５章を参照）。それは、<strong>この世界における神の根本的な目的</strong>に関することです。契約神学者は実際的に、この目的を神の救いであると信じています（もちろん、契約神学者たちも彼らの神学の中で、神の栄光を強調しています）。しかしディスペンセイション主義者は、神がより広い目的を持っておられると言います。それは<strong>神の栄光</strong>です。プログレッシブ派はキリスト論を中心にし、ダビデ契約の強調を基礎とし、キリストがダビデ的支配者として、すでに天において統治しているとします。</p>



<p>通常のディスペンセイション主義者にとって、救済論すなわち神の救いの計画は、神の唯一の計画ではなく、神ご自身の栄光を現すという計画全体の中で、神がお用いになる手段の一つです。聖書は、まるで救いが主要テーマであるかのような人間中心のものではなく、神中心であって、それゆえ神の栄光が中心です。聖書自体が明確に教えているように、確かに救いは重要であってすばらしいものですが、それ自体が目的なのではなく、神の栄光を目的とする手段の一つに過ぎません（エペソ1:6, 12, 14）。ダラス神学校のチェイファーの後継者であるワルブード（John F. Walvoord）は次のように表現しています。「より大きな神の目的は、神ご自身の栄光を現すことである。この目的のために、各ディスペンセイション、諸時代に連続する神の計画の啓示のそれぞれ、選ばれた者たちと選ばれていない者たちに対する神の取り扱い……これらが結合して神の栄光を現すのである。」</p>



<p>ワルブードは他の箇所でこうも言っています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>神によって造られたこの世界に起こるあらゆる出来事は、神の栄光を現すことを目的とされている。契約神学者たちの過ちは、神の目的の多くの面を、恵みの契約の成就というただ一つの目的に結合していることである。論理的に言って、これは還元的過ちと言える。すなわち、全体の一側面を決定的要素として用いているのである。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>このように、ディスペンセイション主義の要点は、<strong>イスラエルと教会の区別</strong>にあります。それは、ディスペンセイション主義者の<strong>一貫した、通常の、平易な、歴史的･文法的釈義の結果</strong>です。それはまた、人類に対する神の取り扱いの基本的目的を反映しています。すなわち、それは神のその他の目的と同様、救いを通して、<strong>神ご自身の栄光を現すこと</strong>なのです。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>千年期前再臨主義の根拠となる聖句は黙示録20章だけなのか</title>
		<link>https://emmaus-press.com/2024/05/06/1-6/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[emao]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 06 May 2024 11:23:31 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ディスペンセイション主義]]></category>
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					<description><![CDATA[千年期前再臨主義の根拠となる聖句は黙示録20章だけか Is Revelation 20 the Only Supporting Text for Premillennialism ? マイケル・ブラック（Michael  [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h1 class="wp-block-heading has-text-align-center">千年期前再臨主義の<br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xs"/><br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-sm"/><br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-md"/>根拠となる聖句は<br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xs"/><br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-sm"/><br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-md"/><br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-lg"/><br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xl"/><br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xxl"/>黙示録20章だけか<br></h1>



<h6 class="wp-block-heading has-text-align-center">Is Revelation 20 the Only Supporting Text for Premillennialism ?</h6>



<h5 class="wp-block-heading has-text-align-center">マイケル・ブラック（Michael Vlach）</h5>


<div class="wp-block-image is-style-default">
<figure class="aligncenter size-full is-resized"><img decoding="async" width="2160" height="1440" src="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2024/05/josh-felise-ZBD7Wh3SJEI-unsplash.jpg" alt="" class="wp-image-2293" style="width:535px" srcset="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2024/05/josh-felise-ZBD7Wh3SJEI-unsplash.jpg 2160w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2024/05/josh-felise-ZBD7Wh3SJEI-unsplash-300x200.jpg 300w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2024/05/josh-felise-ZBD7Wh3SJEI-unsplash-1024x683.jpg 1024w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2024/05/josh-felise-ZBD7Wh3SJEI-unsplash-768x512.jpg 768w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2024/05/josh-felise-ZBD7Wh3SJEI-unsplash-1536x1024.jpg 1536w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2024/05/josh-felise-ZBD7Wh3SJEI-unsplash-2048x1365.jpg 2048w" sizes="(max-width: 2160px) 100vw, 2160px" /></figure>
</div>


<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-xl--margin-top"></div></div>



<p>ロバート・B・ストリンプル（Robert B. Strimple）は、無千年期主義を擁護し千年期前再臨主義に反対する文章の中で、「ワン・テキスト千年期前再臨主義者」という表現を使っている。これは、主イエスの再臨後にキリストによる地上的王国が実現するという見解の根拠を、黙示録20章1節から10節だけに置いている千年期前再臨主義者という意味である<sup data-fn="836084ba-82e6-4c3a-b418-f8bf2898bca8" class="fn"><a href="#836084ba-82e6-4c3a-b418-f8bf2898bca8" id="836084ba-82e6-4c3a-b418-f8bf2898bca8-link">1</a></sup>。私自身、千年王国の問題に取り組む中で気づいたことは、無千年期主義者と千年期後再臨主義者は共通して、千年期前再臨主義は黙示録20章にのみ基づいている、と認識していることである。そして、この箇所がなければ、千年期前再臨主義には何の根拠もないと考えているのだ。</p>



<p>私はこの論文で、千年期前再臨主義が聖書の一箇所だけからの観点だという認識について取り上げたい。確かに「ワン・テキスト千年期前再臨主義者」は存在するかもしれないが、千年期前再臨主義が黙示録20章だけに基づいているというのは事実ではない。聖書の中で「千年」について明確に言及している箇所は黙示録20章だけだが、多くの千年期前再臨主義者は、今の時代が終わった後から永遠の状態までの間に王国があるという考え方と一致する聖書箇所は他にもあると信じている。</p>



<p>その理由を簡単に説明すると、次のようになる。黙示録20章に加えて、旧約聖書のいくつかの箇所が、私たちの生きている現在の時代よりもはるかに良いが、来るべき最終的な永遠の状態ほど完全ではない、この地上の時代を預言している。したがって、主イエスの再臨の後、永遠の状態に入る前に、中間的王国が必要なのである。ウェイン・グルーデム（Wayne Grudem）はこう言う。「旧約聖書のいくつかの箇所は、現在の時代にも永遠の状態にも当てはまらないように思われる。これらの箇所は、贖いの歴史の中に起こる将来の段階を示している。それは、現在の教会時代よりも遥かに偉大ではあるが、地上から全ての罪と反逆と死が取り除かれてはいない時である。<sup data-fn="681ed073-b19f-4c4d-a8b2-56a82e87646c" class="fn"><a href="#681ed073-b19f-4c4d-a8b2-56a82e87646c" id="681ed073-b19f-4c4d-a8b2-56a82e87646c-link">2</a></sup>」</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading">イザヤ書65章</h3>



<p>　そのような聖書箇所の一つがイザヤ書65章である。特に20節にこうある。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>新しい天と新しい地に関連する条件を論じているこの聖句で、問題となるのは長寿である。この預言が成就する時、人々は非常に長生きするようになるので、100歳で死ぬ人は何か悪いことをしたに違いないと思われるだろう。彼らは「のろわれた者」とされる。このように、イザ65:20で注目すべき重要な二つの点は、非常な長寿と、呪いと死をもたらす罪の存在である。</p>



<p>では、イザヤ書65章20節に書かれているこのような状況は、いつ起こるのだろうか。それは私たちの生きている現代に起こるのだろうか。私たちは、平均して70～80年生きる時代に生きている（詩篇90：10参照）。もし今日、100歳で亡くなった人がいたとしても、それは短い人生ではなく、長い人生であったと言われる。ではイザヤ65:20は、来るべき永遠の状態において成就するのだろうか。永遠の状態においては、もはや罪も死も呪いもないので（黙示録21:4; 22:3）、誰も死ぬことはない。</p>



<p>したがってイザヤ65:20は、現在の時代とは異なるが、永遠の状態とも異なる時代に成就しなければならない。つまり、中間王国、あるいは千年王国と呼ばれるものが存在しなければならないことになる。以下に３つの時代を比べてみよう。</p>



<p>　<strong>現在</strong>：寿命は70～80年</p>



<p>　<strong>千年王国</strong>：寿命は70～80年を超えるが、罪と死と呪いは存在する</p>



<p>　<strong>永遠の状態</strong>：人々は永遠に生き、死も罪も呪いもない</p>



<p>イザヤ書65章のこのような理解は最近のものではない。２世紀のクリスチャンたちは、この箇所を千年期前再臨主義の根拠とみなしたのである。マーチン・エドマン（Martin Erdman）は、イザヤ書65章20～25節が「黙示録20章１～10節と共に、アジアの千年王国主義がその千年王国主義的教理を構築するための聖書的根拠」になったと指摘している<sup data-fn="4718bbd8-0d82-4497-bad2-5027c2f647d1" class="fn"><a href="#4718bbd8-0d82-4497-bad2-5027c2f647d1" id="4718bbd8-0d82-4497-bad2-5027c2f647d1-link">3</a></sup>。殉教者ユスティノス（Justin Martyr）も同じ見解であり、イザヤ書65章について「イザヤがこう語ったのは千年の期間についてである」と述べている<sup data-fn="75e309bd-2ac8-40d8-9fbc-0ee9037ff5dd" class="fn"><a href="#75e309bd-2ac8-40d8-9fbc-0ee9037ff5dd" id="75e309bd-2ac8-40d8-9fbc-0ee9037ff5dd-link">4</a></sup>。エドマンはこう指摘している。ユスティノスの旧約聖書預言の引用は「彼が旧約聖書を千年王国についての主要な情報源として信じていたことを示している。彼は字義通りの千年王国を支持する議論を強化するために、ヘブライ語聖書のさまざまな箇所をはばからずに利用した」<sup data-fn="4a5f7218-dd90-4f61-a313-8e5ca3b432ea" class="fn"><a href="#4a5f7218-dd90-4f61-a313-8e5ca3b432ea" id="4a5f7218-dd90-4f61-a313-8e5ca3b432ea-link">5</a></sup>。バルナバの手紙の著者も同様に千年期前再臨主義者であり、エドマンによれば「彼の千年王国的見解は部分的に旧約聖書の箇所に基づいている」<sup data-fn="bf490e1f-27d8-4a4e-b5b7-a6a8f701e9bd" class="fn"><a href="#bf490e1f-27d8-4a4e-b5b7-a6a8f701e9bd" id="bf490e1f-27d8-4a4e-b5b7-a6a8f701e9bd-link">6</a></sup>。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading">ゼカリヤ書14章</h3>



<p>&nbsp;ゼカリヤ書14:5-17もまた千年王国主義を支持している。９節では、主がオリーブ山に立った後で（４節）、「主は地のすべてを治める王となられる」と述べられているが、一部の国々にはまだ不従順と反逆が残っている。エジプトや他の国々は、主に従うべきなのに従わないなら、干ばつで罰せられると預言されている（18-19節）。グルーデムはこの問題をうまく述べている。「ここでもまた、この記述（ゼカリヤ14:5-17）は、主が地のすべてを治める王となっておられない今の時代には当てはまらず、また、主に対する不従順と反逆が明らかに存在すると書かれているので、永遠の状態にも当てはまらない<sup data-fn="461ef559-e764-407e-a84d-47292cff8907" class="fn"><a href="#461ef559-e764-407e-a84d-47292cff8907" id="461ef559-e764-407e-a84d-47292cff8907-link">7</a></sup>。」</p>



<p>千年期前再臨主義者によれば、ゼカリヤ書14章のこのような状況が実現するのは、今の時代と永遠の状態の中間に実現する千年王国でしかありえない。</p>



<p>教会時代にはあらゆる国の人々が救われているが、国家そのものは主に従っていない（詩篇2篇参照）。それどころか、主に属する人々を迫害している国家もある。千年王国では、主イエスは肉体を持って地上にいる間、諸国民を支配される。国々は主の支配に服従するが、ゼカリヤ書14章が指摘するように、取るべき行動をしない国にはいつも罰がある。他方、永遠の状態においては不従順な国々は全くない。永遠の状態における諸国民の姿には否定的なものはない。諸国の王は新しいエルサレムに献げ物を携え（黙示録21:24参照）、いのちの木の葉は諸国民を癒すと言われている（黙示録22:2参照）。比較すると：</p>



<p>　<strong>現在</strong>：主イエスは天におられ、諸国民は主を王として服従していない</p>



<p>　<strong>千年王国</strong>：主イエスは地上で諸国民を支配し、正しく行動しない国を罰する</p>



<p>　<strong>永遠の状態</strong>：諸国民は正しく行動し、処罰の必要はなくなる</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading">詩篇72篇</h3>



<p>　詩篇72:8-14にも王国の存在が示唆されている。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>海から海に至るまで川から地の果てに至るまで王が統べ治めますように。砂漠の民は王の前に膝をつき王の敵はちりをなめますように。タルシシュと島々の王たちは貢ぎを納めシェバとセバの王たちは贈り物を献げます。こうしてすべての王が彼にひれ伏しすべての国々が彼に仕えるでしょう。それは王が叫び求める貧しい者や助ける人のない苦しむ者を救い出すからです。&nbsp;王は弱い者や貧しい者をあわれみ貧しい者たちのいのちを救います。&nbsp;虐げと暴虐から王は彼らのいのちを贖います。王の目には彼らの血は尊いのです。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>このメシア的詩篇は、単にソロモンについての歌ではなく、来るべきメシアについての歌であるように思われる。この王の支配は全世界的（地の果てに至るまで）であり、すべての国々は「彼に仕える」。しかし、13-14節には、救いを必要とする「弱い者や貧しい者」の存在も言及されている。ここでもまた、私たちの現在の世界や最終的な永遠の状態とは調和できない状況が描写されている。グルーデムが述べているとおりである。「これらすべては、現在の時代とははるかに異なる時代について語っているが、罪も苦しみもなくなる永遠の状態には程遠い」<sup data-fn="c07e4b7c-268c-4471-a29c-720530accb6b" class="fn"><a href="#c07e4b7c-268c-4471-a29c-720530accb6b" id="c07e4b7c-268c-4471-a29c-720530accb6b-link">8</a></sup>。比較すると：</p>



<p>　<strong>現在</strong>：メシアは全地を支配していない</p>



<p>　<strong>千年王国</strong>：メシアが全地を支配しているが、救いを必要とする弱い者や貧しい者がまだ存在する</p>



<p>　<strong>永遠の状態</strong>：メシアが全地を支配し、弱い者や貧しい者はいない</p>



<p>さて、ある人たちが考えているように、千年期前再臨主義は「ワン・テキスト」な見解なのだろうか。決してそうではない。主イエスの再臨の後、永遠の状態に入る前に、地上的王国が実現するいう考えは、旧約聖書のいくつかの箇所と黙示録20章で教えられている。黙示録20章には、漸進的啓示の過程で、その中間的王国がどのくらいの期間（千年）であるかが明らかにされているが、そのような時代についての言及は、黙示録20章が最初でも唯一でもない。</p>



<p>「千年王国について教えているのは黙示録20章だけではないか」と言われたら、私はこう言う。「それは正しくない。黙示録20章は、キリストの中間的な地上王国の期間を千年と教えているが、他の聖書箇所も中間的王国について教えている。」すなわち、千年期前再臨主義は旧約聖書と新約聖書の両方に見られる教理である<sup data-fn="98e7694e-4956-4fdf-8a54-bfe7b3e75178" class="fn"><a href="#98e7694e-4956-4fdf-8a54-bfe7b3e75178" id="98e7694e-4956-4fdf-8a54-bfe7b3e75178-link">9</a></sup>。</p>



<p></p>



<p>注釈</p>


<ol class="wp-block-footnotes"><li id="836084ba-82e6-4c3a-b418-f8bf2898bca8">Robert B. Strimple, "Amillennialism," <em>Three Views on the Millennium and Beyond</em>, ed. Darrell L. Bock (Grand Rapids: Zondervan, 1999), 118. ストリンプルがジョージ・ラッドを念頭に置いているのは確かであると思われる。私たちはストリンプルが次のように言っていると主張しているのではない。すべての千年期前再臨主義者が、千年期前再臨主義を支持する聖書箇所は一つだと主張していると。 <a href="#836084ba-82e6-4c3a-b418-f8bf2898bca8-link" aria-label="脚注参照1にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="681ed073-b19f-4c4d-a8b2-56a82e87646c">Wayne Grudem, <em>Systematic Theology</em>: An Introduction to Biblical Doctrine (Grand Rapids: Zondervan, 1994), 1127. <a href="#681ed073-b19f-4c4d-a8b2-56a82e87646c-link" aria-label="脚注参照2にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="4718bbd8-0d82-4497-bad2-5027c2f647d1">Martin Erdmann, <em>The Millennial Controversy in the Early Church</em> (Eugene, OR: Wipf and Stock, 2005), 118. <a href="#4718bbd8-0d82-4497-bad2-5027c2f647d1-link" aria-label="脚注参照3にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="75e309bd-2ac8-40d8-9fbc-0ee9037ff5dd">Justin Martyr, <em>Dialogue with Trypho</em>, The Ante-Nicene Fathers 80, 1:239. <a href="#75e309bd-2ac8-40d8-9fbc-0ee9037ff5dd-link" aria-label="脚注参照4にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="4a5f7218-dd90-4f61-a313-8e5ca3b432ea">Erdmann, 138. <a href="#4a5f7218-dd90-4f61-a313-8e5ca3b432ea-link" aria-label="脚注参照5にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="bf490e1f-27d8-4a4e-b5b7-a6a8f701e9bd">Erdmann, 149. <a href="#bf490e1f-27d8-4a4e-b5b7-a6a8f701e9bd-link" aria-label="脚注参照6にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="461ef559-e764-407e-a84d-47292cff8907">Grudem, 1129. <a href="#461ef559-e764-407e-a84d-47292cff8907-link" aria-label="脚注参照7にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="c07e4b7c-268c-4471-a29c-720530accb6b">Grudem, 1129. <a href="#c07e4b7c-268c-4471-a29c-720530accb6b-link" aria-label="脚注参照8にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="98e7694e-4956-4fdf-8a54-bfe7b3e75178">あえて論じなかったが、多くの新約聖書聖句が千年期前再臨主義と合致している。例えば、マタイ19:28; 25:31; 使徒1:6; 黙示録5:10 等が将来の再臨の際に王国が実現することを示している。本小論の目的は旧約聖書が中間的地上的王国を教えていることを示すためである。 <a href="#98e7694e-4956-4fdf-8a54-bfe7b3e75178-link" aria-label="脚注参照9にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li></ol>]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>二世紀の終末論</title>
		<link>https://emmaus-press.com/2023/06/26/1-5/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[emao]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 26 Jun 2023 08:00:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ディスペンセイション主義]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://emmaus-press.com/?p=1995</guid>

					<description><![CDATA[二世紀の終末論 嶌村貴 二世紀に、ローマ帝国のガリア（現在のフランス・リヨン）の教会の牧会者でエイレナイオス（１３０年頃～２０２年）というギリシャ人がいました。この人はポリュカルポス（69年頃～１５５年頃）から学んだ人で [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h1 class="wp-block-heading has-text-align-center">二世紀の終末論</h1>



<h5 class="wp-block-heading has-text-align-center">嶌村貴</h5>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-full"><img decoding="async" width="492" height="282" src="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2023/06/Ire2.webp" alt="" class="wp-image-2017" srcset="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2023/06/Ire2.webp 492w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2023/06/Ire2-300x172.webp 300w" sizes="(max-width: 492px) 100vw, 492px" /></figure>
</div>


<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-xl--margin-top"></div></div>



<div class="wp-block-group has-regular-font-size"><div class="wp-block-group__inner-container is-layout-constrained wp-block-group-is-layout-constrained">
<p>二世紀に、ローマ帝国のガリア（現在のフランス・リヨン）の教会の牧会者でエイレナイオス（１３０年頃～２０２年）というギリシャ人がいました。この人はポリュカルポス（69年頃～１５５年頃）から学んだ人でしたが、そのポリュカルポスは使徒ヨハネから学びと訓練を受け、牧会者として任命された人でした。</p>



<p>その当時グノーシス派という異端があり、エイレナイオスはその異端の間違いについて全五巻の「異端反駁」という本を紀元１８０年代に書きました。その第五巻に、彼は終末について多くのことを書いています。その日本語訳が２０１７年に初めて出版されました。１８００年以上前に書かれた本ですし、異端の教えに反論する目的で書かれた物であるため、教理解説書のように体系立ててまとめられておらず、わかりにくいところもあります。しかし非常に興味深いことが書かれていますので、その中から、いくつか引用します。引用は「キリスト教教父著作集３･Ⅲエイレナイオス５ 異端反駁ｖ」（大貫隆訳　教文館　２０１７年）からですが、聖書の引用は新改訳２０１７に差し替えました。〔 〕内の言葉は日本語版の訳者が挿入したものです。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>エノクは神のお気に召した。そして神のお気に召したその身体のまま取り去られた。そのことによって彼は、やがてその他の義人たちも同じように取り去られることを予示したのである。エリヤもまた被造の身体にあるままで天に上げられた。そのことによって彼はやがて霊的な人々も同じように天に上げられることを予言したのである。（V:5:1）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>「第四の獣は地に起こる第四の国。これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く。十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らの後に、もう一人の王が立つ。彼は先の王たちと異なり、三人の王を打ち倒す。いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを悩ます。彼は時と法則を変えようとする。聖徒たちは、一時と二時と半時の間、彼の手に委ねられる。」（ダニエル7：23～25）この最後の文章は三年と六箇月という意味であり、その間彼〔反キリスト〕が地を支配するということである。このことについても、再び使徒パウロがテサロニケの信徒に宛てた第二の手紙の中で、彼〔反キリスト〕の登場してくる理由を述べながら、こう言っている。「その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。」（Ⅱテサロニケ２：８～10）」 （V:25:3）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>　<br>彼〔反キリスト〕は自分の王国が続く間に、同じように〔神を忘れて敵に報復する〕だろう。すなわち、自分の王国をそこ〔エルサレム〕へ移して、そこにある神殿に座すだろう。そして彼のことをあたかもキリスト〔メシア〕であるかのように拝む者たちを欺くだろう。（V:25:4）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>さらに、ガブリエルは彼〔反キリスト〕の専制支配〔の終わり〕の時を指し示している。それは神に清い捧げ物を捧げてきた聖徒たちが追われて逃げるようになる時である。すなわち、ガブリエル曰く、「彼は……半週の間、いけにえとささげ物をやめさせる。忌まわしいものの翼の上に、荒らす者が現れる。そしてついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる。」（ダニエル９：27）週の半分というのは、三年と六箇月のことである。（V:25:4）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>それゆえに、終わりの時に、教会がこの場所〔地上〕から突然取り去られるときには、「世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです」（マタイ24：21）と聖書は言うのである。すなわち、これが義人たちの最後の戦いであって、彼らはそれに勝利を収めて、不滅性の冠を戴くことになるだろう。 （V:29:1）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>しかし、反キリストが地上のこの世界のすべてのものに荒廃をもたらし、三年六箇月にわたって支配し、エルサレムの神殿に座したならば、その時にこそ主が天の雲に乗って、父の栄光の中に、やって来られるだろう。そして彼〔反キリスト〕と彼に聞きしたがう者たちを、火の池に投げ込むだろう。しかし、義人たちには、王国の時を、すなわち安息をもたらしてくださるだろう。それは聖別された第七日のことである。そしてアブラハムに約束された子孫を再興されるだろう。その王国では、東と西からやってきた多くの人々が、アブラハム、イサク、ヤコブとともに祝宴の席につくだろう、と主は言われる。（V:30:4）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>イザヤはもう一度まとめて、こう言っている。「狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ、蛇はちりを食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない。――主は言われる。」（イザヤ65：25）もっとも、ある人々はこの文言をかつての野蛮人たちに当てはめて解釈しようと試みている。すなわち、もともとさまざまな民族に属して雑多なことをしていたが、〔その後主を〕信じるようになり、その後は義人たちと思いを一つにしている者たちを指していると言うのである。もちろん、わたしもこの解釈を知らないわけではない。しかし、さまざまな民族からなる不特定の人間たちが同じ一つの信仰の下に集まり、彼らの間でそういうことが今現に起きるのであれば、義人たちが復活するときには、なおさら動物たちの上に、書かれたとおりのことが〈起きてしかるべきであろう〉。（V:33:4）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>「見よ、わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者はのろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者たちは、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。」（イザヤ65：18～22）この種の〔予言的な〕ことをアレゴリー〔寓喩〕化しようと試みる者たちがいる。しかし、もしそうするならば、すべてのことが自己矛盾せずに調和しているとは言えないことになるだろう。（V:34:4-35:1）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。」（イザヤ65：21）すなわち、これらの文言はすべて、義人たちが復活する時に関して言われているのであって、そのことには異論の余地がないからである。その復活は反キリストが到来した後、そして彼の支配に服したすべての民が滅びた後に起きるのである。その復活に与った義人たちは地を支配するだろう。（V:35:1）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>すなわち、あの王国の時が終わった後で――とヨハネは言うのであるが――「また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。」（黙示録20：11）そしてヨハネは普遍的な〔万人の〕復活と審判についても説明して、大小さまざまな死人たちの姿を見たと言っている。彼の言うところでは、「海はその中にいる死者を出した。死もよみも、その中にいる死者を出した。」（黙示録20：13）「数々の書物が開かれた。」（黙示録20：12）彼はまたこう言う、「書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。……それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。」（黙示録20：12、14）これは「ゲヘナ」と呼ばれるもので、主はそれを火の池と呼ばれた。ヨハネはさらに言う、「いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」（黙示録20：15）さらにその後で、こう言っている。「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」（黙示録21：１）（V:35:2）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>その日について、ダビデはこう語った。「これこそ主の門。正しい者たちはここから入る。」（詩篇１１８：20）これは義人たちの王国の第七千年紀のことである。そこでは被造物が新たにされる。（V:36:3）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>以上を時間順にまとめると次のようになります。</p>
</div></div>



<div class="wp-block-vk-blocks-timeline vk_timeline">
<div class="wp-block-vk-blocks-timeline-item  vk_timeline_item vk_timeline_item_lineStyle-default"><div class="vk_timeline_item_content">
<h5 class="wp-block-heading is-style-vk-heading-plain">教会が地上から突然取り去られる</h5>
</div><div class="vk_timeline_item_style vk_timeline_item_style-outlined"></div></div>



<div class="wp-block-vk-blocks-timeline-item  vk_timeline_item vk_timeline_item_lineStyle-default"><div class="vk_timeline_item_content">
<h5 class="wp-block-heading is-style-vk-heading-plain">反キリストがエルサレムの神殿に入り、三年六か月、地を支配する</h5>
</div><div class="vk_timeline_item_style vk_timeline_item_style-outlined"></div></div>



<div class="wp-block-vk-blocks-timeline-item  vk_timeline_item vk_timeline_item_lineStyle-default"><div class="vk_timeline_item_content">
<h5 class="wp-block-heading is-style-vk-heading-plain">キリストが天の雲に乗って再臨され、反キリストを火の池に投げ込む</h5>
</div><div class="vk_timeline_item_style vk_timeline_item_style-outlined"></div></div>



<div class="wp-block-vk-blocks-timeline-item  vk_timeline_item vk_timeline_item_lineStyle-default"><div class="vk_timeline_item_content">
<h5 class="wp-block-heading is-style-vk-heading-plain">義人が復活し、千年の王国に入る</h5>
</div><div class="vk_timeline_item_style vk_timeline_item_style-outlined"></div></div>



<div class="wp-block-vk-blocks-timeline-item  vk_timeline_item vk_timeline_item_lineStyle-default"><div class="vk_timeline_item_content">
<h5 class="wp-block-heading is-style-vk-heading-plain">王国の後に大きな白い御座の裁きが行われる</h5>
</div><div class="vk_timeline_item_style vk_timeline_item_style-outlined"></div></div>



<div class="wp-block-vk-blocks-timeline-item  vk_timeline_item vk_timeline_item_lineStyle-default"><div class="vk_timeline_item_content">
<h5 class="wp-block-heading is-style-vk-heading-plain">新しい天と新しい地が始まる</h5>
</div><div class="vk_timeline_item_style vk_timeline_item_style-outlined"></div></div>
</div>



<div class="wp-block-group has-regular-font-size"><div class="wp-block-group__inner-container is-layout-constrained wp-block-group-is-layout-constrained">
<p>エイレナイオスは、預言を解釈する方法について、「寓喩化（象徴として解釈）してはならない。文字通りに理解すべき」と何度も語っています。</p>



<p>彼はギリシャ人であったらしく、読み学んでいた旧約聖書はヘブル語原文ではなくギリシャ語の七十人訳でした。その結果、七十人訳が不明瞭に翻訳した箇所の理解が不正確であったり、神のことばである旧約聖書と、七十人訳に付け加えられていた人間のことばである外典を少し混同した箇所があります。また当時は迫害が非常に激しく、前述のポリュカルポスも火あぶりにされ殺されました。ですから当時のクリスチャンたちは、サタンによる迫害と、神の怒りの時である患難時代の苦しみを混同し、自分たちが受けている迫害を患難時代の苦しみの始まりのように考えたようです。その結果、不正確、不明瞭なところもあります。例えば患難時代の前半の三年半については全く言及していない、また反キリストが教会を迫害すると記述されているなどです。それでも、聖書の引用だけを用いて論証する方法や、聖書を文字通りに理解するべきであるという態度は、現代の私たちと全く同じであると言えます。</p>



<p>エイレナイオスは使徒ヨハネの弟子の弟子であったので、私たちよりももっと正しいはずだ、ということではありません。どの時代であっても、私たちの信仰の基礎は聖書だけであり、聖書のみを通して神様は今も真理を明確に示し続けておられます。</p>



<p>それでも、エイレナイオスが残した文書は、ヨハネが召されてまだ百年もたたない頃に、教会で終末についてどのように語られ、信じられていたか、聖書がどのように理解されていたかが垣間見える興味深い歴史の記録と言えます。</p>
</div></div>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>患難期前携挙説へのよくある反論</title>
		<link>https://emmaus-press.com/2023/05/07/1-4/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[emao]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 07 May 2023 13:02:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ディスペンセイション主義]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://emmaus-press.com/?p=1962</guid>

					<description><![CDATA[患難期前携挙説へのよくある反論 １「患難期前携挙説は歴史の浅い新説ではないか」 患難期前携挙説を否定する者たちが、必ず、真っ先に挙げるのが、患難期前携挙説は歴史が 浅いという点です。彼らは、Ｊ・Ｎ・ダービー（1800 ～ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h1 class="wp-block-heading has-text-align-center is-style-vk-heading-dotted_bottomborder_black">患難期前携挙説への<br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xs"/>よくある反論</h1>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-full"><img loading="lazy" decoding="async" width="321" height="212" src="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2023/05/名称未設定-1.jpg" alt="" class="wp-image-1964" srcset="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2023/05/名称未設定-1.jpg 321w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2023/05/名称未設定-1-300x198.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 321px) 100vw, 321px" /></figure>
</div>


<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-xl--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading has-text-align-left is-style-default has-black-color has-text-color">１「患難期前携挙説は歴史の浅い新説ではないか」</h3>



<p>患難期前携挙説を否定する者たちが、必ず、真っ先に挙げるのが、患難期前携挙説は歴史が 浅いという点です。彼らは、Ｊ・Ｎ・ダービー（1800 ～1882 年）以前には、患難期前携挙説は 知られていなかったと言います。しかしそれは全く根拠のない作り話です。患難期前携挙説を教理として体系化するにあたって、ダービーが多大な功績を果たしたのは事実ですが、しかし決して、ダービーは彼独自でこの教理を作り上げたのではありません。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h4 class="wp-block-heading is-style-vk-heading-default">ヘルマスの牧者</h4>



<p>95～150年頃に書かれたこの文章は、古代版天路歴程といった感じの物語です。この話の中に、クリスチャンが患難時代を通らないことを示唆する一文があります。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>あなたは、あなたの信仰によって、大いなる患難から逃れることができました。あなたは、あのように巨大な獣を見ても、疑わなかったのですから。ですから、行って、主に選ばれた人々に、主の大いなる業を説明してあげなさい。そして彼らに、この獣が来たるべき大いなる患難の予型であると話しなさい。もしあなたがたに備えがあり、主に対して全心から悔い改めるならば、あなたがたはこの患難を免れることができるでありましょう。</p>



<p></p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h4 class="wp-block-heading">イレナエウス（140～202年頃）</h4>



<p>リヨンの監督であったイレナエウスは明確に、大患難前に教会が取り去られることを教えています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>そこで、終わりの日に教会が突然この地から取り上げられるとき、「世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が始まる。」と言われているのである。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h4 class="wp-block-heading">ヴィクトリヌス（？～303年）</h4>



<p>三世紀に活躍したヴィクトリヌスの黙示録注解が今日残っています。残念ながら注解は正確ではありませんが、注目すべきは、6章14節の注解が、患難期前携挙を示していることです。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>「天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり」とは、教会が取り去られることである。「すべての山や島がその場所から移された」とは、最後の迫害において、すべての者がその場所から離れることである。すなわち、迫害を避けるために、善人は移されるということである。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h4 class="wp-block-heading">シリアのエフレム（306年頃～373年）</h4>



<p>エフレムは、「終わりの時と反キリストと世の終局」と題する重要な文章を残しています。そこで明らかに、患難時代前の携挙を述べています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>すべての聖徒たちと神に選ばれた者らは、来るべき患難の前に集められ、主のもとに取られる。それは、我々の罪ゆえに世を覆う混乱を、彼らが見ることのないためである。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>以上は初代教父たちの教えですが、これらを読むなら、患難時代前の携挙という考えが、決してダービーの創作ではないことが分かります。初代教会の指導者たちも、クリスチャンたちがこの世から取り去られ、その後に患難の時代が来ると教えていたのです。その後に、教会がローマ帝国の支援を受け、国家的宗教となるにつれ、終末についての正しい教えは語られなくなりました。しかし、カトリック教会の衰退と共に、聖書が母国語に翻訳され、研究されるようになり、再び、終末についての正しい教えが発見され、教えられるようになったのです。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-lg--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading is-style-default has-black-color has-text-color">２「『世にあっては患難がある』と主は言われたではないか」</h3>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」（ヨハネ16章33節）</p>



<p></p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>主イエスは弟子たちに、「あなたがたは、世にあっては患難があります」とおっしゃいました。そして、そのお言葉の通り、クリスチャンたちは世にあって患難を経験してきました。それは使徒の働きの記事や、教会史が証明しているとおりです。また、今日に至るまで、真実にキリストを信じ、従う者たちは、聖書の真理から離れた教会から、また、社会主義やイスラム主義の政府から、さらに、不敬虔な独裁者たちから迫害されてきました。</p>



<p>しかしこれらの迫害は、悪魔に支配された世が、クリスチャンに与える患難です。ですから主イエスは次のように語られました。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。れで世はあなたがたを憎むのです。」（ヨハネ15章19節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>しかし、患難時代は、神がこの世に怒りを下される時です。同じ「患難」という言葉が使われていても、誰に対する誰からの患難かが全く異なります。今の時代、クリスチャンに対する世からの患難はありますが、将来の、この世に対する神からの患難の時は、クリスチャンと無関係です。次のみことばは、来るべき患難時代が、世に対する神からの怒りの時であることを明瞭に示しています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」（黙示録6章15～17節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」（黙示録14章7、8節）<br></p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、角笛とときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。 わたしは人を苦しめ、人々は盲人のように歩く。彼らは主に罪を犯したからだ。 彼らの血はちりのように振りまかれ、彼らのはらわたは糞のようにまき散らされる。 彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。そのねたみの火で、全土は焼き払われる。主は実に、地に住むすべての者をたちまち滅ぼし尽くす。（ゼパニヤ1章14～18節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>この世に置かれてはいても、この世に属さない、キリストの花嫁である教会は、来るべき患難の時代を通ることはありません。それは、神の怒りの時という患難時代の性格を考えるときに、また、キリストの花嫁であるという教会の身分を考えるときに、明らかです。次のみことばは、クリスチャンが患難時代を通ることがないことを、確証しています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。（第一テサロニケ5章9節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-lg--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading is-style-default has-black-color has-text-color">３「患難時代の前に聖霊が取り去られるなら、患難時代に人は救われ得ないではないか」</h3>



<p>テサロニケ人への手紙第二の2章6節と7節に次のように記されています。</p>



<p><strong>（6節）「そして、彼が彼の時に〔彼に決められた時に〕現れるように、今は（彼を）引き止めているものがあることをあなたがたは知っています。」<br>（7節）「しかし、今すでに無法の秘密は働いています。ただ、それはその引き止めている者がその役から身を引かされる時までです。」</strong></p>



<p>この「引き止めているもの」は、クリスチャンたち、あるいはクリスチャンたちを通して働かれる聖霊と、一般的に理解されています。そこで、患難期前携挙に反対する人々は、こう反論します。「もしも患難時代の前に聖霊が取り去られるとすれば、魂の救いは聖霊の働きによるのであるのだから、その聖霊不在の中、どのようにして人々が救われるのか。聖書は患難時代においても、救われる者があると語っているではないか。」</p>



<p>このように反論をする人たちは、まず、聖書が、聖霊が取り除かれるとは語っていないことを知るべきです。第六節の「引き止めているもの」は〔 ト　 カテコン〕の訳です。「ト」は中性単数の冠詞です。これは聖霊を意味しています。ギリシア語では聖霊は通常中性で表現されています。しかし、第七節の「その引き止めている者」は〔 ホ　 カテコーン〕の訳で、「ホ」は、男性単数の冠詞です。ですから〔 ト　 カテコン〕は聖霊御自身ではないのです。それは、聖霊によって形成された、偽キリストの出現を止める力がある個人か、団体を意味しています。この聖句の前後関係から見て、これは「個人」ではあり得ません。ですから、それは団体と取るべきです。教会は、キリストとの関係においては通常女性で表現されていますが、世の悪の力に対して戦いながら福音を宣べ伝えている「団体」という意味での教会を男性名詞で表現していると取ることが最も文脈に相応しいのです。</p>



<p>新改訳聖書が「取り除かれる」と訳している言語は〔 エ ク　 メソウ　ゲネタイ〕なのです。この句をギリシア語の表現の習慣を無視して、下手な日本語に直訳すると「真ん中からいなくなる」となるのですが、ギリシア語の表現の習慣に従えば「主役でなくなる、役から外される」となるのです。ですからエマオ訳では「その役から身を引かされる」と訳されているのです。教会は、無法の男、すなわち偽キリストが世に現れるべき時が来るまで偽キリストの出現を止めているのですが、患難時代が始まる前にその止める働きから身を引かされるのです。（聖霊が世から天に引き上げられるのではありません。）教会は患難時代が来る前に天に引き上げられます。そして、地上に教会が存在しなくなってから、偽キリストは世に出て来るのです。</p>



<p>今の教会時代は、聖霊が信者に内住され、信者をキリストのからだにバプテスマされるという、旧約の時代とは異なる聖霊の働きが行われている時代です。そして現在、聖霊は教会を通して福音伝道の働きを行っておられます。しかし、旧約の時代においても、聖霊は働いておられ、その働きによって救われる人々が起こされたのです。教会時代の後においても、イスラエル人の中の「残りの者たち」を通して聖霊の働きは続けられ、救われる者は起こされます。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-lg--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading is-style-default">４「再臨に関して使われている三つのギリシア語は、携挙と地上再臨とを区別していない」</h3>



<p>これは次のような議論です。</p>



<p>（１）再臨を表すギリシア語は三種類ある。すなわち、「パルーシア」「アポカリプシス」「エピファネイア」である。</p>



<p>（２）しかし、これら三つの用語は、それぞれ、ディスペンセイション主義者が携挙を指すと言う聖句にも、地上再臨を指すと言う聖句にも使われている。</p>



<p>（３）従って、聖書は携挙と地上再臨とを区別していない。</p>



<p>ディスペンセイション主義に強固に反対するＧ・Ｅ・ラッドは、この議論を長々と展開しています。(The last things p.49-57) それゆえ、ラッドと同じ立場に立つ者たちは、必ずと言っていいほど、この議論を使います。しかし、この議論は、証明されていない前提に立つ議論です。すなわち、もしも聖書が携挙と地上再臨とを区別しているなら、それぞれに別の用語が用いられているはずだという前提です。しかし、この前提こそが間違っています。たとえば、「パルーシア」という語は、「到来、来臨、出現、着席」などを意味する語です。なにも携挙だけを特定している語というわけではありません。「パルーシア」は、第一テサロニケ4章15節では「再び来られる」と訳されており、第二テサロニケ2章8節では「来臨」と訳されています。同じ用語が使われていますが、どのような「到来、来臨、出現」であるかを決定するのは文脈です。第一テサロニケ4章15節では、主イエスが空中に到来、来臨、出現されることを意味しており、携挙を指しています。しかし、第二テサロニケ2章8節は、不法の人（偽キリスト）を御口の息をもって殺すために、到来、来臨、出現されることを意味しており、地上再臨を指しています。</p>



<p>実のところ、パルーシアは、何も主の来臨だけに限って用いられている用語ではなく、第二テサロニケ2章9節では、「不法の人の到来（パルーシア）」と、偽キリストの到来に関しても用いられています。ですから結局のところ、この議論は、携挙と地上再臨とが別の出来事であることを否定することもできないし、携挙と地上再臨が同じ出来事であることを証明することもできません。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-lg--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading is-style-default">５「第一テサロニケ4章17節の『会う』は『出迎えて、すぐに戻る』という意味だ」</h3>



<p>まず、第一テサロニケ4章17節を引用します。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。</p>
</blockquote>



<p></p>



<p>問題となるのは、「会う（アパンテーシス）」です。患難期前の携挙を否定する者たちの議論はこうです。「この、アパンテーシスという語は、使徒の働き28章15節では、ローマのクリスチャンたちがパウロを出迎えに行った場面でも用いられている。彼らがパウロに会い、一緒にローマに戻って来たように、クリスチャンが携挙されたなら、彼らは主とともに直ちに地上に戻って来るのである。従って、主の再臨はただ一度だけで、それは患難時代の最後に起こるのである。」これもラッド以来、ディスペンセイション主義に反対する者たちが、よく使う論法です。</p>



<p>この議論に対する反論は、シーセンの組織神学から引用します。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>この言葉（アパンテーシス）の出てくる箇所が他に二つある。すなわち、マタイ25章6節と使徒の働き28章15節である。しかし、どちらの場合も、会ってすぐ後でもどって来たということは、明らかではない。パウロは、ローマに出発する前に、彼に会いにやって来た兄弟たちと、確かに交わりの時をもったはずである。ここで用いられているギリシア語「アパンテーシス」は、単なる会見を意味し、同じ語源から来るギリシア語の動詞「アパンタオー」は、会いに行く、会うを意味する。事実、公認本文によるルカ14章31節の読み方、七十人訳による第一サムエル22章17節、第二サムエル1章15節、第一マカベア11章15節と68節、および他のギリシア語の著作においても、戻って来るという思想を見いだすことは不可能である。そこで我々は、キリストはご自身の民とともに帰られるが、その用語はどこまでも、直ちに戻られるとは示唆していない、と断言する。」（786頁より）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>以上、患難期前再臨説に対する主な批判を取り上げました。ディスペンセイション主義に対する反論が、反論するに値しないほど極めて幼稚で、しかも節度を欠いたものであったので、ディスペンセイション主義者たちはこれまで反論に控えめであったのです。そのために彼らはディスペンセイション主義を完全にノックアウトしたと早合点をしているようです。読者が聖書から冷静な判断を下されるように願います。（エマオ出版　終末論 323～335頁より）</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>私たちはなぜディスペンセイション主義に立つのか</title>
		<link>https://emmaus-press.com/2022/09/21/1-2/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[emao]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 21 Sep 2022 07:52:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ディスペンセイション主義]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://emmaus-press.com/?p=1780</guid>

					<description><![CDATA[私たちはなぜディスペンセイション主義に立つのか 山岸 登 ディスペンセイション主義という言葉は、非常に仰々しいので、何か特殊な、異常な、あるいは変な主義主張ではないかという印象を人々に与えますので、同じ内容を定義するもっ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h1 class="wp-block-heading has-text-align-center is-style-vk-heading-plain has-black-color has-text-color" id="vk-htags-37c46e9c-9138-4a16-8d58-685b7d0de5bd" style="font-size:27px">私たちはなぜディスペンセイション主義に立つのか</h1>



<h5 class="wp-block-heading has-text-align-center" id="vk-htags-821b4e31-9665-4204-bc30-9db59247fbac">山岸 登</h5>



<p></p>



<p>ディスペンセイション主義という言葉は、非常に仰々しいので、何か特殊な、異常な、あるいは変な主義主張ではないかという印象を人々に与えますので、同じ内容を定義するもっと平易な言葉はないものかと考えるのですが、日本語でも英語でも見当たらないのです。その上、長年、この言葉が使われてきたので今からそれを変えることは国際的に無理なのです。それで万国共通のディスペンセイション主義という言葉を使うしか仕方がないのです。<br>　ではディスペンセイション主義とは何であるかを共に学んでみましょう。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-table-of-contents-new vk_tableOfContents vk_tableOfContents-style-default tabs"><div class="tab"><div class="vk_tableOfContents_title">目次</div><input type="checkbox" id="chck1"/><label class="tab-label vk_tableOfContents_openCloseBtn button_status button_status-close" for="chck1"></label><ul class="vk_tableOfContents_list tab_content-close"><li class="vk_tableOfContents_list_item vk_tableOfContents_list_item-h-1"><a href="#vk-htags-37c46e9c-9138-4a16-8d58-685b7d0de5bd" class="vk_tableOfContents_list_item_link"><span class="vk_tableOfContents_list_item_link_preNumber">. </span>私たちはなぜディスペンセイション主義に立つのか</a></li><li class="vk_tableOfContents_list_item vk_tableOfContents_list_item-h-5"><a href="#vk-htags-821b4e31-9665-4204-bc30-9db59247fbac" class="vk_tableOfContents_list_item_link"><span class="vk_tableOfContents_list_item_link_preNumber">0.1.1.1. </span>山岸 登</a></li><li class="vk_tableOfContents_list_item vk_tableOfContents_list_item-h-3"><a href="#vk-htags-2a494d47-8029-493b-a6d9-f7029bd7c336" class="vk_tableOfContents_list_item_link"><span class="vk_tableOfContents_list_item_link_preNumber">0.1. </span> ディスペンセイション主義は聖書の絶対的な権威を認める</a></li><li class="vk_tableOfContents_list_item vk_tableOfContents_list_item-h-3"><a href="#vk-htags-ea00c122-489b-45d3-bf41-d11762091a8f" class="vk_tableOfContents_list_item_link"><span class="vk_tableOfContents_list_item_link_preNumber">0.2. </span> ディスペンセイション主義は時の区分を認める</a></li><li class="vk_tableOfContents_list_item vk_tableOfContents_list_item-h-3"><a href="#vk-htags-2b02e7e3-3d99-4cde-8952-863cdf92ea19" class="vk_tableOfContents_list_item_link"><span class="vk_tableOfContents_list_item_link_preNumber">0.3. </span> ディスペンセイション主義は信者を律法から解放する</a></li><li class="vk_tableOfContents_list_item vk_tableOfContents_list_item-h-2"><a href="#vk-htags-9b0b9dcc-b08c-4932-a893-90375bb17839" class="vk_tableOfContents_list_item_link"><span class="vk_tableOfContents_list_item_link_preNumber">1. </span> ディスペンセイション主義は再臨の待望を与える</a></li><li class="vk_tableOfContents_list_item vk_tableOfContents_list_item-h-3"><a href="#vk-htags-a5660729-b28a-4e1c-92f8-003997e47a8c" class="vk_tableOfContents_list_item_link"><span class="vk_tableOfContents_list_item_link_preNumber">1.1. </span> ディスペンセイション主義に立たないことによる弊害</a></li></ul></div></div>



<div class="wp-block-vk-blocks-heading" id="vk-htags-2a494d47-8029-493b-a6d9-f7029bd7c336"><div class="vk_heading vk_heading-style-plain"><h3 class="vk_heading_title vk_heading_title-style-plain"><i class="fa-solid fa-1" aria-hidden="true"></i><span> ディスペンセイション主義は聖書の絶対的な権威を認める</span></h3></div></div>



<p>まず第一に、ディスペンセイション主義者は聖書を絶対なる神の権威あるみことばであると固く信じています。それで、私たちは聖書のみことばを解釈するのではなく、そのまま、字義通りに受け入れるのです。その理由の裏付けを聖書から得ましょう。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。（ヘブル人への手紙　４章12節）</p>
</blockquote>



<p><br>　この「判別することができます」と訳されている語は「さばく力がある」とも意味します。すなわち、神のことばは私たちをさばき、判定する能力を持っているのです。ですから人間が聖書をさばくのではなく、聖書が私たちをさばくのです。神のことば、すなわち聖書は生きています。ですから聖書は人によって解釈される必要はありません。聖書はそれ自身の内に人を生かす力を持っており、その力を証明する能力を持っているのです。<br>　次に第二テモテ３章16節です。<br></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。（テモテへの手紙第二　３章16節）</p>
</blockquote>



<p></p>



<p>この聖句の「神の霊感によるもの」は、ギリシア語の「セオプネウストス」の訳です。正しくは「神の霊が吹き込まれている」と訳すべきことばです。ですからこの聖句の正しい訳は次のようであるべきです。<br>聖書のすべてには、神の霊が吹き込まれており、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。<br>　この「セオプネウストス」は聖書形成の過程を語っているのではなく、聖書の現在の状態を語っています。すなわち聖書の一字一句には神の霊がこもっているので、真実に読む人の霊に働いて、その人を生かさずにはおかない力を持っていることを意味しています。新改訳の訳ですと、聖書は神の霊感によって成立されたと意味しているように取れますが、それはむしろ次の第二ペテロ１章20、21節が語っていることなのです。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。（ペテロの手紙第二　１章20、21節）</p>
</blockquote>



<p></p>



<p>この聖句の中の「私的解釈を施してはならない」ことは事実ですが、この箇所の正しい意味は「（書くために用いられた人の）私的解釈によってできているのではありません」であるのです。ですからその結果として、聖書を読む人が、私的解釈を施してはならないのです。聖書はそれ自体に説明能力を持っているのです。<br>　すなわち、人間が解釈しなければ意味が分からないようなものは、神のみことばではないのです。聖書が神のみことばであるならば、聖書はそれ自体が語り、生きており、自体が神のみことばであることを証明する能力を持っていなければならず、自体の意味を明瞭に説き明かす力を持っていなければならないのです。そして聖書は、聖書自身がそのようなものであると宣言しているのです。私たちが聖書を字義通りに受け取る理由は以上の通りです。<br>　</p>



<p> ではディスペンセイション主義に反対する人々はどのように語っているのでしょうか。彼らは超教派の人々です。彼らは、聖書は字義通りに受け取る必要はない、一人ひとりが解釈すべきであって、自分の解釈だけが正しいと言ってはならず、人の解釈も認めなければならないと言っているのです。聖書には色々な解釈があるのだから、ある解釈だけが絶対に正しく、他のものが間違っているとは言えない、と彼らは主張しています。要するに彼らは聖書には自己証明能力がなく、自体を説明する力もないと言っているのです。彼らも聖書は神のみことばであると信じるとは言っています。しかし聖書の主張を認めていません。もしそれを認めたなら超教派ではあり得なくなるからです。<br>　彼らは、ディスペンセイション主義も、聖書の数多くある解釈の中の一つであると言っていますが、彼らは私たちが何を主張しているのかを理解していないのでそのようなことを言うのです。<br>　私たちは聖書を解釈しないのです。聖書をそのまま、みことばの通り、信じ受け入れるのです。もちろん聖書を読む人の理解の深さや知識の量には個人差があることは認めなければなりません。しかしそれは解釈の違いの問題ではありません。私たちは聖書をそのまま字義通りに受け入れ、もし意味が理解できなければ無理に解釈せずに、御霊が教えてくださる時を待つのです。この態度は、聖書の権威の問題に関して非常に重要です。</p>



<p>　さて、このような心構えで聖書を読むならば、私たちは当然、霊的解釈、あるいは比喩的解釈と言われるものを排除します。比喩的解釈とは、次のような聖句を文字通りに取らず、無理に、聖句が語っていないことをあたかも語っているかのように、こじつけの解釈を施すことです。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p><br>その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。（アモス書　９章11節）</p>
</blockquote>



<p></p>



<p>　比喩的解釈者たちは、このダビデの倒れている仮庵は教会のことである、そして廃墟とはユダヤ教のことであり、腐敗したユダヤ教の代わりに教会が建てられた、すなわち教会は霊的イスラエルであると言うのです。<br>　立派な肩書きを持った神学者という人が言うと、聖書がそのように語っていると思う人もあるでしょうが、そのような解釈は間違いであると同じ章の14節が示しています。<br></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>わたしは、わたしの民イスラエルの捕われ人を帰らせる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。（アモス書　９章14節）</p>
</blockquote>



<p>　</p>



<p>　イスラエルの民とはイスラエル人を意味し、荒れた町々とは文字通りに荒れた町々のことです。<br>　さらに彼らは次のような聖句を文字通りには取りません。<br></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>その日、エジプトの国には、カナン語を話し、万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こり、その一つは、イル・ハヘレスと言われる。その日、エジプトの国の真中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。（イザヤ書　19章18～20節）　</p>
</blockquote>



<p>　</p>



<p>比喩的解釈者はこのような聖句に遭遇すると、このエジプトの国の真ん中に主のために一つの祭壇が建てられるとは、エジプトの国の中にキリスト教会が建てられるという預言であると言うのです。しかし、イザヤ書19章全体を読むならば、これは千年王国についての預言であることは誰の目にも明らかです。このような比喩的解釈を排除して聖書を字義通りに受け入れるとイスラエルの民と教会とは全く別個のものであることが解ります。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-lg--margin-top"></div></div>



<div class="wp-block-vk-blocks-heading" id="vk-htags-ea00c122-489b-45d3-bf41-d11762091a8f"><div class="vk_heading vk_heading-style-plain"><h3 class="vk_heading_title vk_heading_title-style-plain"><i class="fa-solid fa-2" aria-hidden="true"></i><span> ディスペンセイション主義は時の区分を認める</span></h3></div></div>



<p>さて、聖書のみことばを文字通りに受け取るためには、アダムの時代から現在までの時間に幾つか区切りがあることを認めなければなりません。例えば次のようなみことばがその例です。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。」（マタイの福音書　10章5～10節）</p>
</blockquote>



<p><br>　主イエスがこのように語られたのは、主の、公の御生涯の初めの頃です。しかし、復活の後、主は次のように語られました。<br></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。（マタイの福音書　28章19節）</p>
</blockquote>



<p></p>



<p>　主イエスは十字架以前には弟子たちに異邦人の所に行くなと命じられましたが、十字架後には全世界に行けと命じられました。これは十字架を境にして時代が変わったことを明らかにしています。次の聖句も十字架を境にして時代が変化し、その変化に従って主のみことばも変化したことを示しています。<br></p>



<p>それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」<br>（ルカの福音書　22章35、36節）<br>　</p>



<p>さらに次の聖句は、世、すなわち時代が改まり、新しい時代が来ることを語っています。<br></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」（マタイの福音書　19章28節）　</p>
</blockquote>



<p></p>



<p>次の聖句は、時代が複数であることを語っています。<br></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界（注：アイオーナス＝諸時代）を造られました。（ヘブル人への手紙　１章２節）　</p>
</blockquote>



<p></p>



<p>さて、神のアダム以降の人類に対する統治の方法、あるいは摂理が時代ごとに変化することは次の聖句も示唆しています。<br></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。<br>（エペソ人への手紙　１章9、10節）　</p>
</blockquote>



<p></p>



<p>「この時のためのみこころ」は、各時代ごとの「みこころ」があることを示しています。<br>この聖句（10節）の中の「みこころが実行に移され」は原文のギリシヤ語では「オイコノミアのために」で、オイコノミアは日本語では、采配、摂理、執行、取り締まり、世話などを意味します。そして英語訳の聖書ではこの語をディスペンセイションと訳したのです。その訳からディスペンセイション主義という言葉が出来上がったのです。<br>　この時代の変化とそれに従った神の摂理の変化とを念頭に置きながら、聖書のみことばを文字通りに受け取ることを原則として聖書を読むとなると、私たちは、次の聖句はどのように受け取るのでしょうか。マタイの福音書５章17節から20節を引用します。<br></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。（マタイの福音書　５章17～20節）　</p>
</blockquote>



<p></p>



<p>　まず私たちはマタイの福音書が語っている「天の御国」とは何を意味しているのかをマタイの福音書全体から判断し、そしてその語がキリストの地上再臨によって実現されるキリストの王国、すなわち千年王国であることを知ります。<br>　主イエスがこれらのみことばを語られたのは、十字架の前であり、ユダヤ人に対してであることは明らかです。それで、17節の「律法や預言者」とは旧約聖書全体を意味し、特に旧約聖書の中に語られている神様のイスラエル人に対する約束、契約を意味していることが分かります。主イエスがこの地上に来られたのはその約束すべてを成就するためであるのです。千年王国が実現される前に神の契約「全部が成就されます。」<br>　ではイスラエル人が律法学者やパリサイ人の義に優る義を持つという、そして律法の最も小さいものまでも実行するようになるという神の契約は何処にあるのでしょうか。それで私たちは旧約聖書のエゼキエル書を開きます。<br></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>それゆえ言え。「神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える。」彼らがそこに来るとき、すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう。わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。（エゼキエル書　11章17～20節）<br>それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。――神である主の御告げ。――わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。（エゼキエル書36章22～28節）　</p>
</blockquote>



<p></p>



<p>　神は、患難時代の終わりにイスラエルの「残りの者」たちの心から不従順と反抗心を取り去り、神を恐れ敬い、神の律法を守り行なうようにすると約束しておられるのです。エレミヤ書31章31節から33節で神は、千年王国が始まる前に彼らと新しい契約を結ぶと約束しておられます。<br></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。（エレミヤ書　31章31～33節）　</p>
</blockquote>



<p></p>



<p>患難時代の終わりには、この神の契約が実現され、悔い改めたイスラエルの民は神の戒めを完全に行なうように変えられ、彼らの義が、主イエスが地上におられた時の律法学者やパリサイ人たちの義にはるかに優るようになると主は約束されたのです。<br>　もしこのような旧約聖書に記されている神の契約を無視し（ディスペンセイション主義に立たない人々は千年王国の実現を信じません。あるいは千年王国の実現を認めていても神の契約の文字通りの成就を信じません）また時代の違いを認めない人々が、マタイの福音書５章のような聖句に遭遇すると、字義通りに解釈せず、聖書のみことばに彼らの勝手な解釈をこじつけるのです。ディスペンセイション主義に立たなければ聖書を正しく理解することは不可能であると極言しても差し支えないのです。また逆を言えば、聖書を正しく理解しようとすれば、ディスペンセイション主義に立たざるをえないのです。<br>　</p>



<p>　さて、時代は旧約の時代も幾つかにも区分されます。アダムが罪を犯した後からノアの時までは一つの時代です。その時代、殺人犯に対しても人間が復讐することが禁じられていました。<br></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。（創世記　４章15節）　</p>
</blockquote>



<p></p>



<p>しかし、時代が変わってノアの大洪水後は、殺人犯は人間によってさばかれ殺されなければならなくなりました。<br></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。（創世記　９章５、６節）　</p>
</blockquote>



<p></p>



<p>ノアからアブラハムまではもう一つ別の時代です。この時代には異邦人と選民の区別はありませんでした。人類は、神が二度と大洪水によって全人類を滅ぼすことはないという契約を信じ、神の命令通り、全地に増え広がるべきであったのです。しかし彼らはシヌアルの地に天にまで達する塔を建てて神の命令に背きました。<br>　それで神はアブラハムを特別に選び分け、彼と契約を結ばれました。それでまた、それまでとは異なる新しい時代が始まりました。<br>　そのアブラハムの子孫、すなわちイスラエル人の歴史も、モーセの時、神と律法の契約を結んだために、神からそれまでとは違った取り扱いを受けるようになりました。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-lg--margin-top"></div></div>



<div class="wp-block-vk-blocks-heading" id="vk-htags-2b02e7e3-3d99-4cde-8952-863cdf92ea19"><div class="vk_heading vk_heading-style-plain"><h3 class="vk_heading_title vk_heading_title-style-plain"><i class="fa-solid fa-3" aria-hidden="true"></i><span> ディスペンセイション主義は信者を律法から解放する</span></h3></div></div>



<p>　さて律法の時代はモーセから始まりました。律法の時代はある意味においてキリストによって贖いが成就されたことによって終えられたのです。その意味とは、イスラエルの民が律法を守ることによって神の前に義とされることが完全にありえないことと、人が義とされるのはキリストの血によるのであって、信仰によるということが明瞭にされたということです。<br>　元々、律法がモーセのときイスラエルの民に与えられたのは、アダムの子孫は罪の力の支配下にあるため人間の努力によっては決して神の律法を守ることができないことを明らかにするためであったのです。<br>　神がアダムの子孫である人類のために備えられた歩みの方法は信仰の歩みであったのです。これはアダム以降から永遠に変わりません。神は信仰をもって歩むことを求める者に神との親しい交わりの中を歩む助けを与えようと備えられたのです。それでエノクは信仰によって三百年間神と共に歩み、ノアも信仰によって神の命令に従い箱船を作ったのです。アブラハムも信仰によって歩みました。しかしエジプトを出てきたイスラエルの民は信仰によって歩むことを拒否しました。それで神はそのイスラエルの民のために信仰とは異なる手段を、すなわち神に頼らず律法を守る努力によって歩むという手段をお与えになりました。それはもしイスラエルの民が律法を守り正しい歩みをするならばさばかれないが、もし彼らが律法を守らず悪を行なうならばさばかれるというのです。その結果明らかになったことは彼らには律法を守る意志もなければ力もないということでした。イスラエルの民が律法によっては歩めないということと律法が罪の力の支配下にあるアダムの子孫のためには全く無力であることが証明されました。しかし律法が与えられた後も、イスラエルの民の中の信仰者が神を恐れ敬い信仰によって歩むということは全く変わりありません。<br>　</p>



<p>　時代の区分の中に前記の区分の他にもう一つの区分があるのです。それは異邦人の時という時代です。<br>　神はイスラエルの民に王をお与えになり、神の御旨に従った国を建て、また全世界を支配する責任をお与えになったのです。神によって建てられた最初の王はダビデでした。ダビデは信仰によって歩み、イスラエルの国を治めました。そして彼はその子のソロモンに王権を譲りました。神は彼に絶大な権力と、すばらしい繁栄をお与えになりました。しかし彼はその繁栄の半ばで堕落し、傲慢になり偶像礼拝を始めました。それで彼が死んだ時、前９３０年、イスラエルの国は、イスラエルとユダの二つに分裂してしまいました。それによってイスラエルの民には世界を支配するの力がないことが明らかにされました。さらに偶像礼拝に陥ったイスラエル王国は、前７２２年アッシリヤによって滅ぼされました。ユダ王国もヨシヤ王の死後、ひどい偶像礼拝に陥り前６０６年バビロニヤ帝国によって侵略され、独立を失いました。その後バビロニヤ帝国に反逆したため前５８６年に滅ぼされました。そしてユダヤ人はバビロンに捕囚として捕らえ移されました。<br>　それで神は世界を支配することを異邦人に委ねられたのです。その時から異邦人の時が始まったのです。その始まりはユダヤ人がバビロニヤ帝国の支配下に陥った前６０６年です。バビロニヤ帝国は前５３９年にペルシヤのクロス王によって滅ぼされました。神はバビロニヤの次にペルシヤ帝国に世界を支配することを委ねられたのです。神が預言者エレミヤによって預言された預言に従って、前６０６年から70年後の前５３６年に、ユダヤ人はペルシヤのクロス王によってエルサレムに帰還することが許され、神を礼拝する宮の再建に取り掛かりました。宮が再建されたのは、やはりエレミヤによる預言に従って前５８６年から70年後の前５１６年でした。しかしユダヤ人は完全な独立を得ることができませんでした。<br>　このペルシヤ帝国も終わりには堕落し、その後に台頭したマケドニヤのアレキサンドロス王によって倒されました。このようにして前３３６年にギリシヤ帝国が世界を支配しました。しかしアレキサンドロスが早死にしたため、ギリシヤ帝国は、ギリシヤ、アジア、シリヤ、エジプトの四つに分割されました。ギリシヤ時代も三百年間続きましたが、弱体化し、次第に力を増してきたローマが前37年に当時の世界を支配するようになり、前27年にアウグストが皇帝になった時、ローマ帝国の世界支配が確定したと言われえます。<br>　（一般の歴史観に従った年代表によると）紀元前４年に誕生された主イエスは紀元30年、テベリオス皇帝のときに十字架に付けられました。彼らは神の御子であられる主イエスをキリストとして受け入れることを拒み、殺しました。<br>　それで神もイスラエルの民を、一時的にですが、完全に選民の座から退けられました。<br>この時、神は教会の時代を挿入されたのです。この教会の時代は、神の、イスラエルの民のための御計画からも、また異邦人に対する神の御計画からも全く異なる特殊なものであるのです。この時代はそれ以前には全く啓示されていなかったのであり、神の御胸の奥に秘められていたのです。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-lg--margin-top"></div></div>



<div class="wp-block-vk-blocks-heading" id="vk-htags-9b0b9dcc-b08c-4932-a893-90375bb17839"><div class="vk_heading vk_heading-style-plain"><h2 class="vk_heading_title vk_heading_title-style-plain"><i class="fa-solid fa-4" aria-hidden="true"></i><span> ディスペンセイション主義は再臨の待望を与える</span></h2></div></div>



<p>教会時代には、イスラエルの民と異邦人との区別はなく、誰でもキリストを信じる者が救われるという恵みの福音が宣べ伝えられています。そして教会の時代が進行している間、異邦人の時代も同時に進行しています。この教会の時代は、地上にいるキリスト信者すべてを天に引き上げるためにキリストが空中まで下って来られるキリストの空中再臨によって終えられます。</p>



<p>キリストの教会が地上から姿を消した時、異邦人の時代が再現します。そして教会の時代の間、姿を消していた第四の世界帝国であるローマ帝国が十の頭を持って復活します。その十人の王の後に偽キリストが出現し、世界を支配します。この時多くのイスラエル人がこの偽キリストを自分たちのメシヤ（キリスト）として受け入れ、この男と契約を結びます。<br>　この時から七年間の患難時代が始まります。この患難時代とは、サタンが立てた偽キリストに服従するこの世界に対して神の怒りが注がれ、神のキリストを十字架に付けて、サタンのキリストを受け入れたイスラエルの民に対して神の激しい怒りが注がれる時代です。<br>それと同時に、患難時代は神がこの患難時代の激しい苦しみを通してイスラエルの民に悔い改めの機会をお与えになる時代でもあるのです。<br>　この患難時代の間、悔い改めたイスラエルの民にもう一度、神の国の福音が罪の赦しの福音と共に宣べ伝えられます。<br>　この悔い改めたイスラエルの民のためにキリストが地上に再臨されます。それはこの地上に神の国を立て、神がアブラハムに約束された祝福を実現し、ダビデに約束された約束に従って主イエス・キリストがダビデの子として王となられ、この地上を支配して完全な正義と平和を実現するためです。<br>　このキリストの地上再臨によって、異邦人の時代は終えられます。偽キリストによってこの地上を支配しようというサタンの試みは完全に打ち砕かれます。<br>そのキリストの王国を千年王国と呼びます。この千年王国が実現された時、アダム以降の、キリストの教会に属している者以外のすべての信仰者がよみがえらされます。そしてイスラエル人の中の悔い改めてキリストを信じた全ての者と、選ばれた異邦人はこの千年王国に入ることが許されます。<br>　千年王国が終わった時、神は一度この旧創造の世界を消してしまわれ、それまでハデス（地獄）の中で苦しんでいた者たちを一度よみがえらせ、神のさばきの御座の前に立たせて、一人ひとりをその行ないに従ってさばき、永遠の火の池（ゲヘナ）の中に投げ入れてしまわれます。サタンもその中に投げ入れられます。<br>　そうして後、神は新しい天と地を創造されます。それは終局的平安と愛と喜びの永遠の世界です。もはや決して涙を流す必要はなく、死もなく、悲しみもない永遠の世界です。<br>前記のようにアダム以降の人類の時間は、幾つかの時代に、明瞭に区切られているのです。</p>



<p>ではなぜ神は時代を定められたのでしょうか。それには幾つかの理由があります。各時代は人類に対するテストの時代であるのです。</p>



<p>アダムからノアまでの時代は、人類が律法と政府なしに、理性と良心によって歩むことができるかどうかのテストの期間でした。そして人類はそれが全くできないことを証明しました。</p>



<p>ノアからアブラハムの時代は、簡単な政府と殺人を犯した者が人間によって処刑されるという簡単な法律によって、そして二度と大洪水によって地上をさばかないという神の契約によって人類が正しく歩めるかどうかのテスト期間でした。人類はそのテストにも不合格でした。人々は神の契約を信ぜず、再び洪水によって滅びることを免れるために人間の力によって天にまで達するための塔を建てようという愚かなことをしました。そしてこの時代に人類は偶像礼拝に陥りました。<br>　それで神はアブラハムを異邦人の中から選び出され、御自分の選民とされました。アブラハムは神の契約によって励まされた信仰をもって歩みました。<br>アブラハムからモーセまでの時代は、アブラハムの子孫、すなわちイスラエル人が、神がアブラハムと結ばれた契約を信じて先祖アブラハムのように、信仰によって歩むことができるかどうかのテスト期間でした。イスラエルの民には先祖アブラハムの信仰が遺伝しませんでした。信仰は遺伝しないことが明らかにされました。エジプトから救い出されたイスラエルの民は、神の奇蹟を幾度も見ながら、神を信頼しませんでした。彼らは信仰によって歩むことを拒みました。それで神は彼らに律法によって歩む道をお与えになったのです。</p>



<p>モーセからキリストまでの時代は、イスラエルの民が律法によって歩むことができるかどうかのテスト期間でした。しかし彼らはイエス・キリストを十字架に付け、律法によっても歩むことができないことを暴露しました。</p>



<p>教会時代が挿入され、キリストの空中再臨でその時代が終った時、人類がサタンの手に引き渡されます。そして人類はサタンには従うが神には決して従うことができないことを明らかにします。そして人類はさばかれます。<br>　また千年王国の後に、その間底なしの穴に閉じこめられていたサタンが一時解放され、地上の人間を誘惑することが許されます。誘惑されるのは不信者ですが、千年間のキリストによる完全な正義と聖さの、また完全な平和と公平の政治によってでも不信者は悔い改めないことが明らかにされます。</p>



<p>これらのテストによって明らかにされることは、人間は完全に罪の支配下にあるために自分を救う力が全くないことと、救いは神の一方的な恵みよるのであって、神の選びによるのであるということです。そしてそれは神の恵みの栄光が誉め称えられるためであるということです。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-lg--margin-top"></div></div>



<div class="wp-block-vk-blocks-heading" id="vk-htags-a5660729-b28a-4e1c-92f8-003997e47a8c"><div class="vk_heading vk_heading-style-plain"><h3 class="vk_heading_title vk_heading_title-style-plain"><i class="fa-solid fa-5" aria-hidden="true"></i><span> ディスペンセイション主義に立たないことによる弊害</span></h3></div></div>



<p>これまで学んできたことによって私たちは神の御業の目的は神御自身の栄光を現わすことであると結論することができます。もしある種の神学が主張しているように、魂を救うことのみが神の御目的であるとするならば、千年王国も不必要になり、その前の患難時代も必要でなくなり、いやそれだけではなく教会とイスラエルを区別する必要もなくなります。主イエス・キリストが十字架の上で死なれたのは、ただたましいの救いのためであったことになり、従って神の御子がこの世に来られて人となられたのは、ただ単に十字架の上で贖いの業を成就するためだけであったことになり、主イエスはイスラエルの王、メシヤになられる必要もなかったことになるのです。</p>



<p>しかし聖書は明らかに主イエスはイスラエルのメシヤであられ、やがて千年王国の王となられると語っています。ですから、そのような神学の教理に従って聖書を学ぶと、聖書がイスラエルと語っているところを教会と読み替え、患難時代について語っているところをクリスチャンがこの地上で経験する試練と読み替え、千年王国の祝福について語っているところをクリスチャンが経験する霊的祝福と読み替えなければならないことになるのです。そしてその読み替えには高度の熟練と技術が必要なので一般の信者にはそれができず、結局聖書は素人には理解できない難しい謎物と思われてしまっているのです。</p>



<p>これは実に聖書に対する冒涜です。神が分けの分からない書物を御自分のことばとして私たちにお与えになるはずがないのです。<br>　ディスペンセイションの真理を無視して聖書を読むならば、必ず遭遇する混乱の中の主なものは次のものです。</p>



<p>　①イスラエルの民とキリストの教会との混同<br>　②キリストの空中再臨と地上再臨との混同<br>　③クリスチャンと律法との関係の誤解<br>　④福音の真理の誤解</p>



<p>すでに説明したように神には、この地球の支配権をサタンから奪い返し、もう一度それを人間の手に返し、人間に神の栄光を現わさせる御計画があるのです。その御計画の中で特に重要な役目が与えられている民族があります。それがイスラエルの民です。神はイスラエルの民に地球上の全ての民族を真理に従って支配させ、神の栄光を現わさせられます。その時、イスラエルの民自身も全き知恵と力を持っておられる王によって支配されます。その王は完全な正義と公正をこの地上に実現されます。それが千年王国であり、その正義と平和を実現させてくださる王こそ主イエスです。ですからイスラエルの民のために約束された祝福はすべて地上的な祝福です。しかし、神にはイスラエルの民の御計画とは全く異なるもう一つの御計画があるのです。それは御自身の御子のための花嫁を見つけ出すことです。</p>



<p>花嫁は花婿と地位、財産、誉れを分かち合います。神の御子の花嫁は、御子と御父からの祝福を永遠に分かち合います。花婿と花嫁は永遠に愛し合い、喜びを分かち合います。<br>神は異邦人の中からまたイスラエル人の中から人々を選び出し、御子自身の血によって贖い、それらの人々をもって一人の花嫁を造り出そうとしておられるのです。御子は御自分の前に聖く傷のない清純なおとめを御自分の花嫁として迎えるために十字架の上で死んで下さったのです。<br>　このキリストの花嫁である教会に約束されている祝福はイスラエルの民のための祝福とは比較にならぬほど大きなものであり、しかもそれは永遠の祝福です。このように祝福された教会をユダヤ人と混同し、霊的イスラエルと呼ぶことは非常に悲しむべき誤解です。しかしこれは非常に一般的な間違いです。</p>



<p>イスラエルの民と教会との混同は、次のまた深刻な誤りに人々を導いています。それはキリストの空中再臨と地上再臨との混同です。<br>　キリストは、神への反逆と不信仰をもってキリストを拒絶し、十字架に付けたイスラエルの民を七年間の患難時代の中でさばかれます。しかしその患難時代の中で悔い改めた者たちを救い、彼らの先祖アブラハムと結ばれた約束を成就させるために、メシヤとして地上に再び来られ、彼らの王となられ、千年間の至福の王国を実現されます。このキリストの地上再臨は激しいさばきの患難時代の後です。患難時代は未だかつて人類が経験したことのない苦しみの時代です。それは神が人類に対して激しい怒りを発され、人類の罪に対して怒りをぶちまけられるからです。</p>



<p>しかし空中再臨は、この患難時代の前に、地上にいる、教会に属する御自分の民を天に引き上げるために天から空中まで降りてこられる再臨です。それは御自分の民を、全人類に対する怒りに会わせないためにあるのです。その時、キリストはそれまでに死んでいた聖徒たちの霊を引き連れて空中まで降りてこられます。その時彼らのからだはキリストと同じ栄光のからだによみがえらされ、その時まで生きている聖徒たちは、生きたままキリストと同じ栄光の姿に変えられ天に引き上げられ、何時までもキリストとともにいることになるのです。<br>　空中再臨の前には前兆は全くなく、何時あるか分かりません。ですから私たちはそれが何時あってもよいように常に用意していなければならないのです。これは非常に幸いな、栄光ある望みです。教会とイスラエルとを混同している者たちにとって、この区別はつかないので、彼らにはキリストの空中再臨についての正しい望みが持てないのです。</p>



<p>さらにディスペンセイションの真理に立たない人々は、イスラエルの民とクリスチャンとの区別を付けないために、クリスチャンの歩みに関する大きな誤りにぶつかっているのです。<br>　神はイスラエルの民に今から約3500年前に律法をお与えになりました。それは、人間が罪人であるから、律法を守る努力によっては救いを得ることができるほど神の前に義とはなり得ないことを彼らに分からせるためであったのです。しかしイスラエルの民は律法を守ると神に約束したのです。ですから彼らは律法を守るよう努力し続けなければならないのです。しかしその律法は、彼らに律法を守るように命令はしても守る力は与えません。<br>　しかしキリスト信者は律法の下にいるイスラエルの民ではありません。私たちはキリストのいのちによって新しく、神の子どもとして生きる者とされたのであり、キリストとの愛の交わりの中を聖霊の導きによって生きるのです。聖霊は日々私たちにキリストの愛を教え、キリストを愛する愛によって歩むように導いておられます。キリストは私たちに神のために生きる力を与え、動機を与え、志を起こし、信仰を与えてキリストによって歩ませておられるのです。</p>



<p>ディスペンセイションの真理に立たない人が陥る間違いの中にはもう一つ深刻なものがあります。<br>　聖書を一字一句神のみことばであると信じながら、時代の区別を見落としたために、主イエスがユダヤ人のメシヤとして弟子たちに下された命令を教会時代の私たちに適用してしまい、しかもそれが実行不可能であることを知り、主イエスのみことばの権威を疑ってしまう人もあるのです。<br>　主イエスは弟子たちを二人ずつ組にして、病人を癒し、不思議を行なう力を与えて遣わされ、財布も持ってはならないと命じられました。その時主は彼らに異邦人のところに行くなと命令されました。このことが現在にも実行されると思う人は、現在にも福音伝道には病気の癒しが行なわれ、奇蹟がなければならないと思っています（ただし異邦人の所に行くな、は実行しなくてもよいと思っているようです）。<br>　主イエスの公の御生涯の初期に弟子たちにも奇跡を行なう権威をお与えになったのは、第一に彼らがメシヤによって遣わされたメシヤの弟子であることを証明するためであったのです。第二に、ユダヤ人たちはその奇蹟を見た上で主を拒んだのであり、奇蹟と不思議の業では罪人を悔い改めに導くことができないことが証明されるためであったのです。もし病人の癒しによって人々が悔い改めてキリストを信じるのであるならば、ユダヤ人たちは主イエスの行なわれた奇蹟によって皆悔い改めたはずであるのです。<br>　サタンはキリスト教会にある誤った教えを利用し、自分には癒しの力があると宣伝する偽伝道者を起こし、多くの信者を惑わし、またそれを信じた多くの未信者をつまずかせているのです。また、多くの牧師たちがキリストの十字架による罪の赦し、永遠の地獄の刑罰からの救いを説かないのもディスペンセイションの真理を知らないからなのです。</p>



<p>このように、聖書を正しく学び、正しい信仰の歩みを歩むためにはディスペンセイションの真理を知ることは絶対的に必要なことであるのです。またそれは聖書を正しく読むならば、自ずから、誰もが学び得る聖書自体が教えている真理であるのです。</p>
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