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	<title>エマオ出版</title>
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	<description>ディスペンセイション主義に立った出版社です</description>
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	<title>エマオ出版</title>
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	<item>
		<title>第二テサロニケ2章3節は携挙のことか？</title>
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		<dc:creator><![CDATA[emao]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 31 Mar 2026 04:09:04 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[聖書解説]]></category>
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					<description><![CDATA[第二テサロニケ2章3節は携挙のことか？ トーマス・Ｄ・アイス（Thomas D. Ice）  どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来な [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading has-text-align-center is-style-vk-heading-plain" style="font-size:27px">第二テサロニケ2章3節は<br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xs"/><br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-sm"/>携挙のことか？</h2>



<h5 class="wp-block-heading has-text-align-center" id="block-89337b04-36ca-4057-9152-9fe0b23b3a6b">トーマス・Ｄ・アイス<br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xs"/><br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-sm"/>（Thomas D. Ice） </h5>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-full is-resized" id="block-e3b26d84-2c8e-4910-aa9c-7c82f61b83b7"><img fetchpriority="high" decoding="async" width="2000" height="1500" src="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2026/03/uriel-xtgONQzGgOE-unsplash.webp" alt="" class="wp-image-2828" style="width:500px" srcset="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2026/03/uriel-xtgONQzGgOE-unsplash.webp 2000w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2026/03/uriel-xtgONQzGgOE-unsplash-300x225.webp 300w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2026/03/uriel-xtgONQzGgOE-unsplash-1024x768.webp 1024w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2026/03/uriel-xtgONQzGgOE-unsplash-768x576.webp 768w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2026/03/uriel-xtgONQzGgOE-unsplash-1536x1152.webp 1536w" sizes="(max-width: 2000px) 100vw, 2000px" /></figure>
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<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず<strong>背教</strong>が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。（テサロニケ人への手紙第二　2章3節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>私は、第二テサロニケ2章3節が携挙に言及している可能性が非常に高いと信じています。どういう意味かというと、私のような一部の患難期前携挙説の支持者は、通常「背教」と訳されるギリシャ語の名詞「アポスタシア（apostasia）」が、携挙を指しており、「離脱」と訳されるべきだと考えているのです。したがって、この箇所は、携挙が先に行われて初めて、主の日が来ることを示していることになります。もし「アポスタシア」が物理的な「離脱」を指すのであれば、第二テサロニケ2章3節は、患難期前携挙説を強く裏付ける証拠となります。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading is-style-default">「アポスタシア」の意味</h3>



<p>ギリシャ語の名詞「アポスタシア（apostasia）」は、新約聖書の中でたった2回しか出てきません。第二テサロニケ2章3節と使徒の働き21章21節に登場します。後者ではパウロについて、「あなたが、異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に……モーセに背く（アポスタシア）ように教えている」と書かれています。この語は、ギリシャ語の「アポ（apo：～から）」と「イステミ（istemi：立つ）」の複合語です。したがって、その中心的な意味は「～から離れる」あるいは「離脱する」です。リデル・スコット『ギリシャ語辞典』は、アポスタシアを第一に「離反、反乱」、第二に「離脱、消失」と定義しています<sup data-fn="bb021a4b-b9f8-47b0-b0a5-dcde8ffabdb5" class="fn"><a href="#bb021a4b-b9f8-47b0-b0a5-dcde8ffabdb5" id="bb021a4b-b9f8-47b0-b0a5-dcde8ffabdb5-link">1</a></sup>。ゴードン・ルイス（Gordon R. Lewis）は、名詞アポスタシアの語源となった動詞が、いかにして「離脱」という基本意味を裏付けているかを次のように説明しています。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>この動詞は、空間的な移動を意味する場合がある。それゆえ、この名詞がそのような空間的な移動や離脱を意味し得ると否定する理由はほとんどない。新約聖書において、この名詞がモーセからの離反（使徒21:21）を指して使用されているのは他に一度しかないため、その聖書的な意味が必然的に決定づけられていると結論づけることは難しい。この動詞は新約聖書で15回使用されている。この15回のうち、信仰からの離反に関係するのはわずか3回だけである（ルカ8:13、Ⅰテモ4:1、へブ3:12）。この語は、不義からの離脱（Ⅱテモ2:19）、不敬虔な人々からの離脱（Ⅰテモ6:5）、神殿からの離脱（ルカ2:27）、肉体からの離脱（Ⅱコリ12:8）、人々からの離脱（使12:10、ルカ4:13）も用いられる<sup data-fn="36f1528c-f3a2-4591-83e9-9b4fbbf6bc82" class="fn"><a href="#36f1528c-f3a2-4591-83e9-9b4fbbf6bc82" id="36f1528c-f3a2-4591-83e9-9b4fbbf6bc82-link">2</a></sup>。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>ダニエル・デイヴィー（Daniel Davey）はこう結論しています。「適切な聖書解釈の研究に基づく確固たる確信と、原語に対する完全な信頼をもって、『アポスタシア』という語の意味は『離脱』だと定義される<sup data-fn="95457785-3be3-4bd9-93be-c6d65ef3b986" class="fn"><a href="#95457785-3be3-4bd9-93be-c6d65ef3b986" id="95457785-3be3-4bd9-93be-c6d65ef3b986-link">3</a></sup>。」ポール・リー・タン（Paul Lee Tan）は次のように付け加えています。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>パウロが「背教」（2:3）は患難の前に必ず起こると言うとき、彼は具体的に何を意味しているのか？　定冠詞「the」は、これが明確な出来事であり、罪の人の出現とは区別される出来事であることを示している。「背信」を表すギリシャ語は、単独では宗教的な背教や離反を意味しない。また、この語は「落ちる」という意味でもない。ギリシャ語にはそれにふさわしい別の語 [pipto： 落ちる] があるからだ。この語の最良の訳は「離れる」である。使徒パウロはここで、彼が「離別」と呼ぶ特定の出来事を指しており、それは大患難が始まる直前に起こる。それは教会の携挙である<sup data-fn="5924ad72-bdaf-40b8-aa4e-9d81d4a04a87" class="fn"><a href="#5924ad72-bdaf-40b8-aa4e-9d81d4a04a87" id="5924ad72-bdaf-40b8-aa4e-9d81d4a04a87-link">4</a></sup>。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>したがって、この語の中心的な意味は「去ること」であり、それが物理的な離脱を意味するのか、あるいは信仰からの離脱のような抽象的な離脱を意味するのかは、文脈によって決まります。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading">翻訳の歴史</h3>



<p>「apostasia」の最初の7つの英語訳はすべて、この名詞を「departure（離別）」または「departing（去る）」と訳しています。それらは以下の通りです：ウィクリフ聖書（1384年）、ティンダル聖書（1526年）、カバーデール聖書（1535年）、クランマー聖書（1539年）、ブリーチズ聖書（1576年）、ベザ聖書（1583年）、ジュネーブ聖書（1608年）<sup data-fn="808b505b-e33d-468a-af2b-e28ad197f635" class="fn"><a href="#808b505b-e33d-468a-af2b-e28ad197f635" id="808b505b-e33d-468a-af2b-e28ad197f635-link">5</a></sup>。これは、この語が本来「離反」を意味するという見解を裏付けています。実際、西暦400年頃のものとされるヒエロニムスのラテン語訳『ウルガタ』では、apostasiaを「離反」を意味する「discessio」という語で訳しています<sup data-fn="18c2a6b4-9f92-4b1f-8aae-8c42a0b08926" class="fn"><a href="#18c2a6b4-9f92-4b1f-8aae-8c42a0b08926" id="18c2a6b4-9f92-4b1f-8aae-8c42a0b08926-link">6</a></sup>。なぜ欽定訳聖書が、確立された「離反」という訳から初めて逸脱したのでしょうか。スイスの宗教改革者テオドール・ベーズ（Theodore Beza）は、他の人々がそうしていたように「apostasia」を翻訳するのではなく、初めてそれを音写して新しい単語を作り出した人物です。欽定訳聖書の翻訳者たちは、初めて「apostasia」を「falling away（背教）」と訳すという新しい解釈を導入しました。ほとんどの英語の翻訳者は、欽定訳とベザ訳に倣い、「apostasia」を「離脱」と訳す従来の方法から逸脱しています。これについて、これまで正当な理由は提示されたことがありません。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading">定冠詞の用法</h3>



<p>パウロが名詞「アポスタシア（apostasia）」に定冠詞を付けている点に注目することが重要です。これは何を意味しているでしょうか。デイビーは次のように指摘しています。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>ギリシャ語では名詞を特定するために定冠詞を必要としないため、定冠詞が用いられているということは、特定の何かを指していることが明らかになる。第二テサロニケ2章3節において「アポスタシア」という語の前に定冠詞が置かれていることは、パウロがテサロニケの教会にとって明確に知られている特定の種類の離反を指し示していることを意味する<sup data-fn="4b232c76-8317-4634-b8d7-eabf045df2c8" class="fn"><a href="#4b232c76-8317-4634-b8d7-eabf045df2c8" id="4b232c76-8317-4634-b8d7-eabf045df2c8-link">7</a></sup>。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>ルイス博士は、定冠詞が語を際立たせ、それに注意を向けさせる役割を果たすと指摘し、妥当な答えを示しています。この場合、その目的は「以前の言及を示すこと」にあると彼は考えています。「パウロが以前に言及した『離別』とは『私たちが主のみもとに集められること』（1節）であり、『私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会う』こと（Ⅰテサ4:17）であった」とルイス博士は指摘しています<sup data-fn="e414103f-2739-4c06-9eef-26f41f94b2b5" class="fn"><a href="#e414103f-2739-4c06-9eef-26f41f94b2b5" id="e414103f-2739-4c06-9eef-26f41f94b2b5-link">8</a></sup>。この「離別」とは、パウロと読者との間で明確に共通の理解があった事柄でした。パウロは2章5節で「私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話していたのを覚えていませんか」と述べています。</p>



<p>定冠詞の使用もまた、パウロが明確で識別可能な出来事について語っていたという見解を裏付けるものです。携挙のような物理的な離別は、まさにそのような概念に合致します。しかし、新約聖書は、背教がすでに一世紀に到来していたと教えています（使20:27–32、Ⅰテモ4:1–5、Ⅱテモ3:1–9、Ⅱペテ2:1–3、ユダ3–4、17–21参照）。</p>



<p>したがって、そのような過程は、この箇所の語が要求するような明確な出来事を指すものではありません。「離別」を携挙と理解すれば、このテキストのニュアンスに合致します。E・スカイラー・イングリッシュ（E. Schuyler English）は次のように説明しています。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>繰り返すが、仮に（単にこの考察のために）背教が起きた際、教会が地上に存在していると仮定したとしても、テサロニケの信徒たち、あるいはそれ以降のどの時代のクリスチャンでも、背教が起きた時にそれを認識することができるだろうか。神からの背教、神に対する反逆は、世の初めから存在してきたからである<sup data-fn="3303d2af-be73-4e25-af04-4776e5560ce1" class="fn"><a href="#3303d2af-be73-4e25-af04-4776e5560ce1" id="3303d2af-be73-4e25-af04-4776e5560ce1-link">9</a></sup>。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>パウロが「離別」という語で言及しているのは、テサロニケの信者たちと彼が以前に深く議論していた事柄でした。パウロのテサロニケ人への手紙第一を検証すると、彼は背教の教理については何も言及しませんが、この書簡の事実上すべての章で携挙について語っています（参照：1:9–10、2:19、おそらく3:13、4:13–17、5:1–11）。これらの箇所で、パウロは携挙を説明するために様々なギリシャ語の用語を用いています。彼が第二テサロニケ2章3節で、携挙を指すために別の用語を用いていることは驚くべきことではありません。ハウス博士は次のように述べています。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>覚えておいてほしいのは、テサロニケの信徒たちは「主の日」がすでに到来したという偽りの教え（2:2–3）に惑わされていたことである。これは混乱を招くものだった。なぜなら、パウロは第一の手紙の中で、キリストと共にいるための「携挙」と神の怒りからの救いという大きな希望を提示していたからだ。ところが今、パウロからのものだと称する手紙が、彼らがまず「主の日」を経なければならないと言っているように見えた。そこでパウロは、彼らが心配する必要はないと強調することで、以前の教えを明確にした。第一の手紙や、彼らと共にいた時の教えで語った「携挙」は依然として真実であるため、彼らは再び慰められることができたのである。パウロは、クリスチャンがキリストのもとへ引き上げられ、その後「不法の人」が現れるという事実は、彼らが考えていたように「主の日」がまだ始まっていないことの証拠だと論じている。この「背教（アポスタシア）」に対する理解は、「主の日」の前に信仰からの離反が必ず起こらなければならないという見解よりも、はるかに理にかなっている。第2章全体（およびⅠテサ4:18、5:11）は、第一の手紙で教えられたキリストの再臨に関する確信によって支えられ、慰めを与える役割を果たしている（2節、3節、17節参照）<sup data-fn="8ee9bf14-b4c0-4328-9ae2-f1dcf4d013fb" class="fn"><a href="#8ee9bf14-b4c0-4328-9ae2-f1dcf4d013fb" id="8ee9bf14-b4c0-4328-9ae2-f1dcf4d013fb-link">10</a></sup>。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading">離別と抑止者</h3>



<p>患難期前携挙説の支持者たちは、6節と7節で言及されている「引き留めているもの（者）」が聖霊であると信じ、患難期前の携挙を説いているため、3節の展開にも同様の思考の流れが見られることは驚くべきことではありません。フェイス神学校の学長であるアラン・マクレー（Allan MacRae）は、スカイラー・イングリッシュへの手紙の中で、この件について次のように述べています。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>この節と、少し後の7～8節との間に、驚くべき類似点があることに気づかれたでしょうか。あなたの指摘によれば、3節では教会の「離別」が最初に起こり、その後「不法の者」の現れが語られています。7節と8節にも、まったく同じ順序が見られます。7節は教会の「離脱」について述べ、8節は「不法の者が現れます」と述べています。したがって、この箇所を綿密に検討すれば、もし「アポスタシア（apostasia）」という語を一般的な意味である「離別」と理解するなら、そこには内在的な統一性と整合性が示さます。一方、表面的な検討では、不法の人への言及が近接しているために、「背教」という誤った解釈に陥りやすいのです<sup data-fn="d21f0a3c-6910-41b9-b2c0-1e23b7cd4472" class="fn"><a href="#d21f0a3c-6910-41b9-b2c0-1e23b7cd4472" id="d21f0a3c-6910-41b9-b2c0-1e23b7cd4472-link">11</a></sup>。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>ムーディー聖書学院のギリシャ語学者ケネス・ウェスト（Kenneth Wuest）は、「アポスタシア」を物理的な離脱と解釈する根拠として、以下の文脈的裏付けを提示しています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>しかし、パウロが語っている「アポスタシア」は、反キリストが真の姿で現れることに先立ち、その現れを妨げている「カテコン」（2:6）に対するものである。したがって、「ヘ・アポスタシア」は、反キリストの到来に先行するキリスト教世界における一般的な背教でもなければ、反キリストが自らを唯一の礼拝の対象とする活動の結果としての特定の背教でもあり得ない。さらに、その現れを妨げているもの（3節）は、「ホ・カテコーン」（7節）――すなわち、同じ出来事を妨げている方――と密接に関連している。後者は、私の見解では、聖霊とその教会における働きである。これらすべてが、私を避けがたい結論へと導く。すなわち「あの背教」（3節）とは、主の日の前に起こる教会の携挙を指し、その時代の「世」の側面をもたらす「罪の者」の現れを差し止めているのである<sup data-fn="5331a026-c9e2-4641-91bc-bc6df8584bfc" class="fn"><a href="#5331a026-c9e2-4641-91bc-bc6df8584bfc" id="5331a026-c9e2-4641-91bc-bc6df8584bfc-link">12</a></sup>。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading">結論</h3>



<p>「アポスタシア」が物理的な離別を意味する可能性が極めて高いという事実は、患難期前携挙説を明確に支持します。もしこれが真実であるなら（ティム・ラヘイ博士と私はそう信じていますが）それはパウロが使徒としての働きの初期に、明確な預言的順序を提示していることを意味します。パウロは第二テサロニケ2章において、主の日が始まる前に、まず携挙が起こると教えています。主の日が始まって初めて、反キリストが解き放たれ、その結果、第二テサロニケ2章でパウロの書いた出来事が起こります。これが、苦難に直面している人々に希望を与える唯一の解釈です。マラナタ！</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>


<ol class="wp-block-footnotes"><li id="bb021a4b-b9f8-47b0-b0a5-dcde8ffabdb5"> Henry George Liddell and Henry Scott, <em>A Greek-English Lexicon, Revised with a Supplement</em> [1968] by Sir Henry Stuart Jones and Roderick McKenzie (Oxford, Eng.: Oxford University Press, 1940), p. 218. <a href="#bb021a4b-b9f8-47b0-b0a5-dcde8ffabdb5-link" aria-label="脚注参照1にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="36f1528c-f3a2-4591-83e9-9b4fbbf6bc82">Gordon R. Lewis, “Biblical Evidence for Pretribulationism,” <em>Bibliotheca Sacra</em> (vol. 125, no. 499; July 1968), p. 218. <a href="#36f1528c-f3a2-4591-83e9-9b4fbbf6bc82-link" aria-label="脚注参照2にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="95457785-3be3-4bd9-93be-c6d65ef3b986">Daniel K. Davey, “The ‘Apostesia’ of II Thessalonians 2:3,” Th.M. thesis, Detroit Baptist Theological Seminary, May 1982, p. 27. <a href="#95457785-3be3-4bd9-93be-c6d65ef3b986-link" aria-label="脚注参照3にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="5924ad72-bdaf-40b8-aa4e-9d81d4a04a87">Paul Lee Tan, <em>The Interpretation of Prophecy</em> (Winona Lake, IN: Assurance Publishers, 1974), p. 341. <a href="#5924ad72-bdaf-40b8-aa4e-9d81d4a04a87-link" aria-label="脚注参照4にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="808b505b-e33d-468a-af2b-e28ad197f635">H. Wayne House, “Apostasia in 2 Thessalonians 2:3: Apostasy or Rapture?” in Thomas Ice and Timothy Demy, eds., <em>When the Trumpet Sounds: Today’s Foremost Authorities Speak Out on End-Time Controversies</em> (Eugene, OR: Harvest House, 1995), p. 270. <a href="#808b505b-e33d-468a-af2b-e28ad197f635-link" aria-label="脚注参照5にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="18c2a6b4-9f92-4b1f-8aae-8c42a0b08926">House, “Apostesia”, p. 270. <a href="#18c2a6b4-9f92-4b1f-8aae-8c42a0b08926-link" aria-label="脚注参照6にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="4b232c76-8317-4634-b8d7-eabf045df2c8">Davey, “Apostesia”, p. 47. <a href="#4b232c76-8317-4634-b8d7-eabf045df2c8-link" aria-label="脚注参照7にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="e414103f-2739-4c06-9eef-26f41f94b2b5">Gordon R. Lewis &amp; Bruce A. Demarest, <em>Integrative Theology 3 vols in 1</em> (Grand Rapids: Zondervan, 1996), vol. 3, p. 420. <a href="#e414103f-2739-4c06-9eef-26f41f94b2b5-link" aria-label="脚注参照8にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="3303d2af-be73-4e25-af04-4776e5560ce1">E. Schuyler English, <em>Re-Thinking the Rapture</em> (Neptune, NJ: Loizeaux Brothers, 1954), p. 70. <a href="#3303d2af-be73-4e25-af04-4776e5560ce1-link" aria-label="脚注参照9にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="8ee9bf14-b4c0-4328-9ae2-f1dcf4d013fb">House, “Apostesia”, pp. 275–76. <a href="#8ee9bf14-b4c0-4328-9ae2-f1dcf4d013fb-link" aria-label="脚注参照10にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="d21f0a3c-6910-41b9-b2c0-1e23b7cd4472">Allan A. MacRae, <em>Letter to E. Schuyler English</em>, published in “Let the Prophets Speak,” <em>Our Hope</em>, (vol.LVI, num. 12; June 1950), p. 725. <a href="#d21f0a3c-6910-41b9-b2c0-1e23b7cd4472-link" aria-label="脚注参照11にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li><li id="5331a026-c9e2-4641-91bc-bc6df8584bfc">Kenneth S. Wuest, <em>Letter to E. Schuyler English</em>, published in “Let the Prophets Speak,” <em>Our Hope</em>, (vol.LVI, num. 12; June 1950), p. 731.<br> <a href="#5331a026-c9e2-4641-91bc-bc6df8584bfc-link" aria-label="脚注参照12にジャンプ"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/21a9.png" alt="↩" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" />︎</a></li></ol>]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>あなたは自分の肉を十字架に付けたか？</title>
		<link>https://emmaus-press.com/2026/01/14/fleshcross/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[emao]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 13 Jan 2026 22:03:21 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[クリスチャン生活]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://emmaus-press.com/?p=2690</guid>

					<description><![CDATA[あなたは自分の肉を十字架に付けたか？ 山岸登&#160; キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。（ガラテヤ人への手紙5章24節） この聖句は、私たちが自分の肉 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading has-text-align-center is-style-vk-heading-plain" style="font-size:27px">あなたは自分の肉を十字架に付けたか？</h2>



<h5 class="wp-block-heading has-text-align-center" id="block-89337b04-36ca-4057-9152-9fe0b23b3a6b">山岸登&nbsp;</h5>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-full is-resized" id="block-e3b26d84-2c8e-4910-aa9c-7c82f61b83b7"><img decoding="async" width="600" height="655" src="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2026/01/cross.webp" alt="" class="wp-image-2692" style="width:500px" srcset="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2026/01/cross.webp 600w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2026/01/cross-275x300.webp 275w" sizes="(max-width: 600px) 100vw, 600px" /></figure>
</div>


<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。（ガラテヤ人への手紙5章24節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>この聖句は、私たちが自分の肉をさまざまの情欲と欲望と共に十字架に付けてしまったと語っています。ところが私たちは、少なくとも私は、自分の肉を十字架に付けた経験はないし、また私たちの肉は、少しでも隙を与えると、その悪さを発揮し、私たちをその力の支配下に置こうと虎視眈々とチャンスを狙っています。私たちの肉は私たちの中で生きているのです。</p>



<p>では、この聖句は間違いなのでしょうか。聖句に間違いがあるはずがありません。では、訳が間違っているのでは？そうでもありません。では、クリスチャンの中の特別な人の、霊的体験を語っているのでは？そうではありません。使徒パウロは、特殊な霊的体験というものを、ことのほか嫌忌しました。「キリスト・イエスにつく者」とは、全クリスチャンを意味していることは確実です。</p>



<p>では、この聖句は何を意味しているのでしょうか。この聖句の原語の用法は、格言的用法と言い、「このような覚悟をもって歩みなさい」という意味です<br>肉というものは、私たちが絶対に甘く見てはならないものであり、私たちにとって憎まなければならないものであるのです。肉に対して寛容は禁物です。肉は私たちを破滅に導きます。</p>



<p>サムソンを堕落させ、破滅に落とし込んだのは悪女デリラでした。デリラはサムソンの肉を喜ばせ、快楽を与え、彼に一時的でも幸福感を与えました。しかし、彼女は決してサムソンを愛してはいなかったのです。しかし、デリラはサムソンに愛を要求し、彼の心を巧みに奪ってしまいました。そして、サムソンを破滅に落とし込んだのです。彼女はのろわれており、サムソンが愛すべき者ではなかったんです。</p>



<p>サムソンはデリラに騙されていたのです。これが肉の本当の姿です。肉は、私たちを騙します。幸せを与えるように見せ掛けて、私たちを堕落させようとしています。</p>



<p>神は私たちの肉を、のろわれたもの、さばくべきもの、憎むべきものと見ておられます。それでは、私たちも自分の肉を同じように見るべきであり、同じように取り扱うべきであるのです。</p>



<p>肉にふさわしい場所は、のろいとさばきの場である十字架の上です。そして聖霊は、私たちに、私たち自身が自分の手で、自分の肉を、そのさまざまの情欲と欲望とともに十字架に付けてしまったという覚悟、自覚をもって、日々、歩みなさいと命じておられるのです。私たちを真実な喜びと勝利に導いてくださるのは聖霊です。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>彼らは救われているのか？</title>
		<link>https://emmaus-press.com/2025/11/20/aretheysaved/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[emao]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 20 Nov 2025 14:19:30 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[クリスチャン生活]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://emmaus-press.com/?p=2669</guid>

					<description><![CDATA[彼らは救われているのか？ 山岸登&#160; 彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。（テトスへの手紙第一　1章16節） 彼らは不敬虔な者 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading has-text-align-center is-style-vk-heading-plain" style="font-size:27px">彼らは救われているのか？</h2>



<h5 class="wp-block-heading has-text-align-center" id="block-89337b04-36ca-4057-9152-9fe0b23b3a6b">山岸登&nbsp;</h5>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-full is-resized" id="block-e3b26d84-2c8e-4910-aa9c-7c82f61b83b7"><img decoding="async" width="1000" height="667" src="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/11/jacinto-diego-MvB-e_jx0eY-unsplash.webp" alt="" class="wp-image-2670" style="width:500px" srcset="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/11/jacinto-diego-MvB-e_jx0eY-unsplash.webp 1000w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/11/jacinto-diego-MvB-e_jx0eY-unsplash-300x200.webp 300w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/11/jacinto-diego-MvB-e_jx0eY-unsplash-768x512.webp 768w" sizes="(max-width: 1000px) 100vw, 1000px" /></figure>
</div>


<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。（テトスへの手紙第一　1章16節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>彼らは不敬虔な者たちで私たちの神の恵みを放縦に置き変えようとしており、私たちの唯一の主であり神でいますイエス・キリストを否定しています。（ユダの手紙　4節〈エマオ出版訳〉）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>この聖句の「否定する」という語は、自分とその人との関係を否定するという意味です。すなわちそれは、主イエスが自分の主であり、自分が主イエスに服従していることを否定することです。</p>



<p>さて、私たちもこれらの聖句が意味しているようなクリスチャン（？）を見かけます。彼らは自分がクリスチャンであると自称しており、キリストを信じていると告白しています。また、主イエスの処女降誕と復活を信じているかと問うと、信じていると言います。「あなたは、主イエスが十字架にかかって死なれたのがあなたのためであったと信じていますか」と問うと、彼らは信じていると答えます。しかし、彼らには主イエスに従う意志が全くないのです。彼らの生活の原理は自我の追求です。それは、ある人にとっては情欲、肉欲などの不道徳と呼ばれるものの追求でしょうが、他の人にとっては、それは商売、事業、芸術、学問などであったりします。彼らの共通点は、主イエスに従う意志が全く欠如していることであり、世からの分離が全くないことです。</p>



<p>彼らの中には、教会の牧師もいます。私たちにとって非常に大きな問題は、彼らの中のある者たちが、キリストへの服従の必要を否定しながら、人々に、キリストを信じるように宣べ伝えていることです。そのような者たちの意味している信仰には「神への服従」という意味が全く欠如しています。ですから、彼らはキリストを信じるとは告白していても、キリストに従うことが全くないのです。</p>



<p>仏教の因習の大変強い地方には、熱心な仏教徒が大勢見かけられます。彼らは信心に熱心であり、仏教の教理をよく知っています。しかし、彼らの関心事は金であり、あるいは情欲であって、普通の人間と全く変わりません。そのような人々の仏教的言語をキリスト教的言語に置き換えると、彼らはある種のクリスチャンになり、またある種の牧師にもなり得るのです。</p>



<p>そこで、真の信者と偽の信者との境界線は、キリストを信じていると告白しているかいないかではなく、新たな誕生を経験して新しいいのちを持っているか、それとも新たな誕生を経験したことがなく、従って新たないのちを持っていないかであるのです。新しいいのちを持っていることの証拠は、神への従順です。新たな誕生を経験し、神からの新しいいのちを持っている者は、神のみこころに従うことを喜びとし、神の愛に応えて神を愛します。それが真実な信仰のしるしである従順です。聖書はこのことについて次のように語っています。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。（ローマ人への手紙　１章５節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。（ローマ人への手紙　15章18節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。（ローマ人への手紙　16章19節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現されて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。（ローマ人への手紙　16章25節～27節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>すなわち、父なる神の予定に従い、御霊による聖別によって従順に至らせられるようにと、そしてイエス・キリストの血の注ぎを受けるようにと選ばれた人々へ。あなたがたに恵みと平安が増し加えられますように。（ペテロの手紙第一　1章2節〈エマオ出版訳〉）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。（ペテロの手紙第一　１章14、15節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>救われていない者は新しいいのちを持っていません。ですから神に従うことができません。また、神に従うことを忌み嫌います。それで、神への不従順が救われていない者の特徴です。ですから聖書は不信者のことを「不従順の子ら」と呼んでいます。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>神の怒りは不従順の子らに下るのです。（エペソ人への手紙　5章6節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。（エペソ人への手紙　2章１～３節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>ではなぜキリストを信じると告白しながら、実際的にはキリストに従いたくない、そして肉に従って歩み続けるような者、すなわち偽信仰告白者が起きるのでしょうか。</p>



<p>私たちも、キリストを心の中に受け入れて救われる以前、肉に従って生きていました。肉の特徴は「神への反抗」です。聖書は肉について次のように語っています。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。（ローマ人への手紙　8章7節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>このように不従順で反抗的であった私たちの心に聖霊なる神が語りかけ、キリストの福音によって罪を示してくださいました。そして神への反抗の結果が永遠の地獄であることを教えてくださいました。その時、聖霊は私たちに、主イエスの十字架上の御死による罪の赦しを教えてくださいました。このようにして私たちは主イエスを自分の救い主として信じ受け入れることができたのです。そしてその結果として新しいいのちが与えられ、新しい歩みが始められたのです。</p>



<p>このようにして与えられた信仰には、自分の自我を自分の神としてそれに従ってきた人生を捨てて、主イエス・キリストを神として受け入れ、キリストに仕える人生に入るために方向転換するという意味が含まれていました。</p>



<p>ところが、ある人々は、自分の欲望追求の歩みを捨てたくないために、肉に従う歩みを続ける口実として、信仰の告白から神への従順を切り離してしまったのです。サタンは巧みにそのような人々を騙し、その人々の良心を麻痺させ、神の恵みを理由にして罪に従い続けることに良心の咎めを感じなくさせてしまったのです。そのような人々にサタンは、「お前は神に従う必要はない。今までの歩みを止める必要はない。キリストをただ信じるだけで良いのだ」とささやき、神への従順のない形式的な信仰をその心に植え付けてしまったのです。このようにして、キリストを信じると告白はしていても、全く真の信者としての歩みができない偽信者が生じるのです。そのような信仰告白者の中に新しいいのちはありません。</p>



<p>ですから、そのような偽信者が、正しい信仰の道を歩み続けることはできません。やがて信仰の破船に遭い、脱落していきます。彼らは神に対して反抗的になり、真理を否定して同類を集めて異端のグループを作ります。このような偽信者は、現代には特に多いのですが、教会時代のごく初期から存在していたのです。それゆえ聖書はそのような者たちに次のように語って、警告を与えています。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とかいう、ことわざどおりです。（ペテロの手紙第二　2章20～22節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>一度光を受け、天的な賜物を味わい知り、聖霊の働きに関与する者となり、そして（語られた）神の良いみことばと、来るべき国の力ある業とを味わった上で、道から外れてしまった者は、自分で神の御子を（今）十字架につけており、公に侮辱を与えているので、再び悔い改めに立ち返らせることは不可能です。土地が、その上にしばしば降る雨を飲み込み、そして、実に、それを耕した農夫に良き作物を生じているなら、神から祝福を受けます。しかし、いばらやあざみを生えさせているなら、捨てられ、さばきは近く、遂には焼却処分を受けます。（ヘブル人への手紙　6章4～8節〈エマオ出版訳〉）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>では、みことばを宣べ伝える者たちは、このような救いに至らない偽りの信仰告白者を作らないためにどのような注意が必要でしょうか。それはまず、みことばを教える者が、神が与えてくださる信仰が必ず神への従順に至らせることを確信していることです。そして、次のみことばのとおり、新しい信者に、神への従順をもって自分が救われていることを熱心に証するように、勧め続けることです。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>ですから兄弟たちよ。あなたがたは、自分の召しと選びとを（他の人々に）証明することにますます熱心な者でありなさい。これらのことを行っていれば、あなたがたは決してつまずいて倒れることがありません。（ペテロの手紙第二　1章10節〈エマオ出版訳〉）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>さらに必要なことは、たとい福音の正しい知識を持っていてキリストを信じると告白していても、真実な信仰の結果である神への従順を否定するような者を、次の聖句に従って救われている者とは決して認めないことです。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>全てこの方の中に留まっている者は罪を犯し続けません。全て罪を犯し続けている者は、この方を見たことは一度もないし、その方を知ったことも全くないのです。小さな子どもたちよ。あなたがたは、だれにも騙されてはいけません。あの方が正しいように、正しいことを行っている者が正しいのです。その罪〈無法〉を行い続けている者は悪魔に所属しています。なぜならば悪魔は最初から罪を犯し続けているからです。神の御子が（この世に）現れてくださったのは、この悪魔の働きを破壊するためでした。全て神から生まれた者〈神の子どもたち〉は、罪を行い続けません。なぜならばその人の中に彼〈神〉の種が宿っているからです。そして、その人は、神から生まれたので罪を行い続けることができないのです。（ヨハネの手紙第一　3章6～9節〈エマオ出版訳〉）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>また、このような「救われているとは認められ得ない信仰告白者」に対して私たちはどのように語るべきでしょうか。私たちは、そのような人々に、たとい彼ら自身が救われていると思っていても、彼らの信仰が真実な信仰ではないゆえに、彼らは救われていないと断定することです。彼らに「キリストをただ信じなさい」と言うことは無意味です。なぜならば、彼らの信仰についての定義が誤っているからです。彼らの考えている信仰には神への従順が欠如しています。彼らは知識は持っています。ですから、私たちは、彼らにその知識に従って、それにふさわしく歩み始める決断を迫るべきです。彼らが謙遜にその決断を行ったとき、彼らの信仰が始めて真実なものとなり、彼らは救いに与ることができるからです。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>「そういう人たち」は信者か未信者か（へブル６章４～６節）</title>
		<link>https://emmaus-press.com/2025/09/11/hebrews6/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[emao]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 11 Sep 2025 06:45:17 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[聖書解説]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://emmaus-press.com/?p=2651</guid>

					<description><![CDATA[「そういう人たち」は信者か未信者か （へブル６章４～６節） 前田大度&#160; 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしま [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h1 class="wp-block-heading has-text-align-center is-style-vk-heading-plain">「そういう人たち」は信者か未信者か</h1>



<h3 class="wp-block-heading has-text-align-center is-style-vk-heading-plain">（へブル６章４～６節）</h3>



<h5 class="wp-block-heading has-text-align-center" id="block-9a327231-02ee-4a1c-ae5a-18e5d846cc39">前田大度&nbsp;</h5>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-full is-resized" id="block-e3b26d84-2c8e-4910-aa9c-7c82f61b83b7"><img loading="lazy" decoding="async" width="900" height="675" src="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/09/ivan-bandura-XsAz9Mq61XY-unsplash.webp" alt="" class="wp-image-2653" style="width:500px" srcset="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/09/ivan-bandura-XsAz9Mq61XY-unsplash.webp 900w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/09/ivan-bandura-XsAz9Mq61XY-unsplash-300x225.webp 300w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/09/ivan-bandura-XsAz9Mq61XY-unsplash-768x576.webp 768w" sizes="auto, (max-width: 900px) 100vw, 900px" /></figure>
</div>


<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、<strong>そういう人たち</strong>をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。（へブル人への手紙　6章4～6節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>この非常に厳しい警告は、誰に対して発せられているのでしょうか。『ライリー・スタディ・バイブル』の解説は三つの見解を挙げています。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>(1)アルミニウス派は、ここに書かれている人々は実際に救いを失ったクリスチャンだと考える。もしそうなら、この箇所はもう一度救われることが不可能だと教えていることになる。</p>



<p>(2)ある人々は、この箇所は真実な信仰者のことではなく、単なる信仰告白者のことを述べていると考える。それゆえ、4-5節は救いに至らない経験だと理解される(9節参照)。「堕落」とは真理の知識から離れ去ることであって、真理を個人的に所有していたわけではない。</p>



<p>(3)他の人々は、この箇所を、クリスチャンの成長と成熟を促すための、真実な信仰者への警告と理解する。「堕落」は不可能だが（この見解によれば、真実な信仰者は永遠に安全だから）警告を強めるためにこのフレーズが文中に置かれている。ちょうど先生が学生たちにこう言うのに似ている：「皆さんがこのコースに一度登録した以上、たとえ時計の針を戻せたとしても（それは実際には不可能なので）コースを最初からやり直すことはできません。ですから、学生の皆さんはより深い知識へと進みましょう。」この見解では、4-5節は回心の体験を指すと理解される。「光に照らされる」(10:32)、「味わう」(2:9)、「あずかる者」(12:10)という語が、ヘブル書の他の箇所で、真実な経験について使われている点に注目せよ。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>(1)の見解は、救いの安全性を明確に述べている聖句と矛盾してしまうので間違いです。例えば、以下の聖句は救われた者が救いを失うことがないことを明瞭に保障しています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。<br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xs"/>（ヨハネの福音書　10章28節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。<br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xs"/>（ローマ人への手紙　8章38、39節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。<br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xs"/>（ユダの手紙　24、25節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>ライリーは(3)の見解のようですが、はたして「4-5節は回心の体験を指すと理解される」でしょうか。ヘブル6章4節と5節の人の、5つの特徴を順に検討することにします。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p><strong>１．「一度光に照らされ」</strong><br>　同じ表現は10章32節でも使われていて、そこでは明らかに信者を指しています。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>あなたがたは、光に照らされた後で苦難との厳しい戦いに耐えた、初めの日々を思い起こしなさい。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>光に照らされるとは、人が聖霊によって霊的な理解力が与えられることを意味します。それゆえ、信者は全員、光に照らされた者たちですが、光に照らされた者が全員信者になるわけではありません。重要なのは、光に照らされた人が、その光に応答し、光を信じ受け入れるかどうかです。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」<br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xs"/>（ヨハネの福音書　12章36節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p><strong>２．「天からの賜物を味わい」</strong><br>「味わう」とは「経験する」ことを意味します。口に入れて味わうだけで飲み込まない、という意味ではありません。ヘブル2章9節では、主イエスが十字架の苦しみを経験されたことに「味わう」という語が使われています。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>「天からの賜物」とはキリストご自身です。主イエスがどれほど素晴らしい方であるかを、みことばや信者の証しを通して味わうことは、未信者でも可能です。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p><strong>３．「聖霊にあずかる者となって」</strong><br>この表現が聖霊を受けた信者であると理解する人々は、次の聖句を根拠にして「キリストにあずかる者」が信者を指す以上「聖霊にあずかる者」も信者だと言います。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。<br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xs"/>（へブル人への手紙　３章14節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>しかし「キリストにあずかる者」の「キリスト」には冠詞がついていますが、「聖霊にあずかる者」の「聖霊」には冠詞がついていません。この違いは重要です。聖霊に冠詞がついていないということは、ここでは聖霊ご自身を指しておらず、聖霊の力や働きを指しているということです。ですから「聖霊にあずかる者」もまた、光に照らされた者と同様で、すべての信者は、救いへと導いてくださる聖霊の働きにあずかったからこそ、キリストを信じて救われましたが、聖霊の働きにあずかった者が全員、救われるわけではありません。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p><strong>４．「神のすばらしいみことばを味わった」</strong><br>この「みことば」は、語られたみことばを意味します。つまり、この人はクリスチャンの集まりに参加し、神の愛と恵みのメッセージを聞いたのです。「信仰は聞くことから始まります」が（ローマ10:17）、「私たちが聞いたことを、だれが信じたか」（ローマ10:16）とあるように、聞いたことを信じなければ救われません。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p><strong>５．「来るべき世の力を味わった」</strong><br>「来るべき世」とは千年王国のことであり、「力」とは奇跡を意味します。ヘブル人への手紙の読者たちは、主イエスや使徒たちを通して行われた、様々な奇跡を経験しました。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>このように、へブル書６章４－６節の人は信者だと聖書から断定することはできません。彼らは福音の理解力が与えられ、キリストのすばらしさを味わい、聖霊の導きにもあずかり、神のことばを喜び、様々な奇跡をも体験しましたが、救いには至らなかったのです。</p>



<p>また、ヘブル６章４－６節の人には、確かに救われた信者だけに用いられる表現が使われていません。すなわち、新しく生まれた、神の子どもとされた、永遠のいのちを受けた、御霊を受けた、御霊によってバプテスマされた、御霊の内住を受けた、聖徒とされた、などの決定的な表現がありません。すなわち、この人々は、悔い改めを伴う真実な信仰には至らなかった人です。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>真理と体験</title>
		<link>https://emmaus-press.com/2025/07/24/truthandexperience/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[emao]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 24 Jul 2025 13:28:18 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[クリスチャン生活]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://emmaus-press.com/?p=2635</guid>

					<description><![CDATA[真理と体験 山岸登  私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。（ピリピ人への手紙　３章10、11節） 使徒パウロは、何 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h1 class="wp-block-heading has-text-align-center is-style-vk-heading-plain">真理と体験</h1>



<h3 class="wp-block-heading has-text-align-center is-style-vk-heading-plain"></h3>



<h5 class="wp-block-heading has-text-align-center" id="block-9a327231-02ee-4a1c-ae5a-18e5d846cc39">山岸登 </h5>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-full is-resized" id="block-e3b26d84-2c8e-4910-aa9c-7c82f61b83b7"><img loading="lazy" decoding="async" width="2000" height="1500" src="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/07/aaron-burden-4uX_r8OhJ_o-unsplash.webp" alt="" class="wp-image-2637" style="width:500px" srcset="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/07/aaron-burden-4uX_r8OhJ_o-unsplash.webp 2000w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/07/aaron-burden-4uX_r8OhJ_o-unsplash-300x225.webp 300w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/07/aaron-burden-4uX_r8OhJ_o-unsplash-1024x768.webp 1024w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/07/aaron-burden-4uX_r8OhJ_o-unsplash-768x576.webp 768w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/07/aaron-burden-4uX_r8OhJ_o-unsplash-1536x1152.webp 1536w" sizes="auto, (max-width: 2000px) 100vw, 2000px" /></figure>
</div>


<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。（ピリピ人への手紙　３章10、11節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>使徒パウロは、何としてでも<strong>「死者の中からの復活」</strong>すなわちキリストの空中再臨に至るまで、ある一つのことを体験しつつ生きたいと願ったのです。それはキリストの復活の力が実際に自分のうちに働いていることを味わい知る体験であったのです。そして、そのキリストのいのちの力によって、キリストの苦しみを体験し、さらにそれによってキリストが死に至るまで、しかも十字架上の死に至るまで御父に服従され、ご自身をささげられたように、パウロ自身も神へ自分自身をささげることを切に願ったのです。</p>



<p>私たちは真理をただ単なる知識として頭の中にしまっておくだけでなく、実際的に真理に従って歩み、真理の力を体験することを求めるべきであるのです。実際的に真理の力を味わってこそ、その真理を理解したと言えるのです。</p>



<p>例えば、クリスチャンは神の子どもであり、しかも御父に愛されています。そして御父に祈る特権にあずかっています。私たちは実際に祈り、祈りが答えられることを体験し、その特権がいかに価値あるものであるかを味わい知るべきです。</p>



<p>しかし、実際に神の助けを必要とする場面に自分自身を置かないと祈ることはできません。冷蔵庫の中に食糧がいっぱい詰まっているのに、今日の糧をお与えくださいと祈ることはできません。</p>



<p>それと同様に、実際に自分がキリストの復活の力を必要とする状況の中にいないならば、私たちはキリストの復活の力を求めませんし、またキリストの力による助けを味わうこともできません。</p>



<p>私たちがキリストの復活の力を必要とする場面とは、私たちがキリストの苦しみにあずかるときです。すなわち私たちは、人々のたましいの救いのために様々の苦しみ、犠牲を払うこと、迫害を受けること、恥辱を受けることがあります。モンゴルやその他の国で福音伝道に従事している宣教師たちの苦労は<strong>「キリストの苦難」</strong>の一つです。また日本でも福音伝道のためには苦労があります。教会新聞を一軒一軒配ることも<strong>「キリストの苦難」</strong>の一つです。</p>



<p>それらの苦しみを克服するために私たちはキリストの復活の力を必要としています。実際に、キリストのいのちの力を聖霊を通してキリストから直接いただかなければ、私たちはすぐに疲れ果ててしまうのです。</p>



<p>しかし、そのような場面こそ私たちが、<strong>「キリストとその復活の力」</strong>が実際に私たちの内に働き、私たちを力付け、私たちを助けてくださることを実際的に学ぶ最良の教室であるのです。</p>



<p>私自身の経験を語りましょう。その時私は20歳になる１か月前でした。ある県の山奥にある、谷間の細長い村に入り込み、下流から上流に向かって一軒一軒訪ね、福音を語っていました。全ての人に一度は伝えようと、田んぼの中まで裸足で入って行き、何とかして福音を伝えようとしていました。しかし、聞いてくれる人はほとんどいませんでした。何とか彼らの興味を引こうと、色々おもしろい話しを工夫したのですが、そのような努力がかえって私自身を疲れさせ、所持金の乏しさもあって、空腹感が私を精神的にも疲れさせ、そのような努力に対する見返りのなさからの失望が私の心を、疲労のどん底に突き落としていました。</p>



<p>自分自身の無力さを思い知らされ、自分に対する失望のゆえに、自分の献身の生涯についての不安、自分の歩みの前途への不安に対して勝利する力を失っていました。それどころか勝利しなければならない理由を見失っていました。</p>



<p>農家の人々が昼寝する時間帯は、真夏の屋外ではブヨと蚊に襲われるので、昼寝もできず、河原に下りて行き、木陰に適当な大きさの石を見付けて、その上に座り、聖書を開いたのです。</p>



<p>エペソ人への手紙を第１章から読み始めました。すぐに目に入った聖句は、<strong>「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」</strong>（1:3）でした。その聖句が語っていることと自分の状態があまりにもかけ離れているので、ただ空しく読むだけでした。</p>



<p>しかし、第２章になり、<strong>「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」</strong>（4～6節）を読んだとき、コリント人へ手紙第二、4章18節の<strong>「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」</strong>を思い出し、河原の石の上に座っている自分が見える自分であり、天の所に「キリストにあって」座っている自分が見えない自分なのであることに気が付かされたのです。</p>



<p>もしキリストが死なれ、その死後三日目に復活されたことが事実であるならば、今キリストは天におられるはずであり、天にある御座に着座しておられるのであり、聖書が語っている通り私自身もキリストにあって天の所に座らせられていることも事実であるはずです。そして肉眼では見えなくても、復活されたキリストが天におられることを信じているならば、自分がキリストの内に、キリストとともに生きていることも信じなければならないはずです。私はこのことを信ずべきであることを知ったのです。それで、聖書が語っているままを、身辺の状況の如何にかかわらず、信じ受け入れることを学ばされたのです。それで、それを受け入れる決心をしました。</p>



<p>その時、それまで私の心を支配していた将来への不安、自分に対する期待から生じていた不安と失望、自分はどのようにすべきかが分からないことからの焦りが霧散し、キリストへの信頼、神の恵みへの希望と喜び、神のみこころへの信頼が心を満たし始めたのです。</p>



<p>その時、自分の力、才能、計画への期待の愚かさと空しさを知らされ、全面的に神に自分を委ねることを教えられたのです。正確に言えば、その時から教え始められたのです。</p>



<p>この時、聖霊によって教えられた真理は、新約聖書を理解するための、全ての人にとって不可欠の鍵となる真理でした。それゆえ、その時から聖書が一層輝きを増して、力強く迫ってくるようになったのです。さらに、キリストの復活の力を実際的に味わい、困難に勝利することの喜びが増し加わり、主に仕えることが喜びとなり、大きな困難が目前に迫ってきても、キリストが力を与えてくださるので必ずそれを乗り越えることが許されるという希望を持つことができるようにならせられたのです。</p>



<p>私たちの現実の歩みに、実際的助けを与えることがない真理は存在しませんし、私たちが自分の現実問題に適用しなくても良い真理も存在しません。私たちは、全ての真理を知的に知るだけではなく、真理に従って歩むこと、すなわち真理の現実的力を体験し、真理に従って生きることの喜びを味わい知るべきであるのです。</p>



<p>それは特にみことばを語るために立てられている牧師、教師には絶対的に必要なことであり、もしそうしないならば真理を冒涜するばかりか、信徒たちに身をもって真理の力を否定することになるからです。</p>



<p><strong>「富んでおられたのに」</strong>私たちのために<strong>「貧しくなられ</strong>（た）<strong>」</strong>（Ⅱコリ8:9）主の弟子であると公言している者が、贅沢に暮らしていることほど不似合いで、嫌悪感を起こさせるものは他にありません。<strong>「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ</strong>（た）<strong>」</strong>（ピリ2:6, 7）キリストに従う者は、謙遜であるべきであり、自己を宣伝し、自分の誉れを求めるようなことは絶対にすべきではないのです。<strong>「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われ</strong>（た）<strong>」</strong>（ピリ２:８）キリストのしもべは、自己否定と自己犠牲の心をもって主に真実に仕えるべきであるのです。そして、もし私たちが真理に従って生き歩むことを願うならば聖霊は必ず私たちを助けてくださるのです。</p>



<p>聖霊はキリストの代理として私たちの内に宿っておられます。聖霊の働きの目的は、私たちに真理を知っている者にふさわしく歩む力を、私たちの信仰に応じて、与えることであるのです。キリストは聖霊を通して、キリストを信頼する者にキリストに従う力を与えてくださいます。そして私たちの責任は、その真理の力を自分自身で味わうばかりでなく、その力を他の人々に証しすることであるのです。それによって、キリストの真理の力が証明され、キリストの御名に栄光が帰され、教会を通して神が誉め称えられるのです。どうかこのようにして私たちを通して神の栄光が現わされますように。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
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		<title>使徒時代以降の教会における異言の賜物</title>
		<link>https://emmaus-press.com/2025/05/19/1-10/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[emao]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 19 May 2025 08:25:56 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[クリスチャン生活]]></category>
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					<description><![CDATA[使徒時代以降の教会における異言の賜物（A.D.100-400年） クレオン・Ｌ・ロジャーズ・ジュニア（Cleon L. Rogers, Jr.）&#160; パウロの教えの中で、異言がやむべきものであることは明白だが（1 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h1 class="wp-block-heading has-text-align-center is-style-vk-heading-plain" id="block-8f6ae8cf-b9b1-4395-bb52-d38d39ed54b1">使徒時代以降の教会における<br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xs"/>異言の賜物<br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xs"/>（A.D.100-400年）</h1>



<h3 class="wp-block-heading has-text-align-center is-style-vk-heading-plain"></h3>



<h5 class="wp-block-heading has-text-align-center" id="block-9a327231-02ee-4a1c-ae5a-18e5d846cc39">クレオン・Ｌ・ロジャーズ・ジュニア<br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xs"/>（Cleon L. Rogers, Jr.）&nbsp;</h5>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-full is-resized" id="block-e3b26d84-2c8e-4910-aa9c-7c82f61b83b7"><img loading="lazy" decoding="async" width="960" height="1273" src="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/05/960px-Saint_Irenaeus_of_Lyons.webp" alt="" class="wp-image-2582" style="width:500px" srcset="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/05/960px-Saint_Irenaeus_of_Lyons.webp 960w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/05/960px-Saint_Irenaeus_of_Lyons-226x300.webp 226w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/05/960px-Saint_Irenaeus_of_Lyons-772x1024.webp 772w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/05/960px-Saint_Irenaeus_of_Lyons-768x1018.webp 768w" sizes="auto, (max-width: 960px) 100vw, 960px" /></figure>
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<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>パウロの教えの中で、異言がやむべきものであることは明白だが（1コリント13:8）重要な問題は、異言がやむのはいつかということである。本論文は、この疑問に対する可能な答えを議論することを意図しているのではない。むしろ使徒たちの時代と同じように、異言がいつまで実践されていたかどうかを判断するために、紀元100年から400年までの教父たちの証言を検証することを目的としている。もし異言の賜物が１世紀に完全に途絶えていなかったとすれば、その継続の証拠があるはずである。多くの人々が教えているように、異言の賜物が重要であるなら、使徒時代以後の指導者たちは異言について強調し、その実践を大いに称賛したはずである。しかし、紀元100年から400年までの教会において、異言が重要な位置を占めていたことを示す証拠はない。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading is-style-default">使徒教父の証言</h3>



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<p>使徒たちの時代に異言の賜物が実際にあったことは、聖書からの明らかな証拠がある。しかし、使徒教父たちの著作には、この賜物に関する言及、暗示、記述が一切見られないという点は重要である。これは単なる「沈黙からの論証」であり、異言の継続を支持するものであると同時に、異言の消滅を支持するものでもある、と反論されるかもしれない。しかし、この沈黙の重要性は、ある事実に照らすと、さらに重みを増す。<br><br>第一に、使徒教父の何人かは、使徒たちの時代に賜物が実践されていた教会から、あるいは教会に向けて書いている。その最も顕著な例は、ローマのクレメンス(AD.35-101)の『コリント教会への手紙』である。異言が実践されていた初代教会があるとすれば、それはまさにここである。しかし、ローマのクレメンスは、彼らの霊的な遺産について語るときでさえ、この賜物について一言も触れていない。権威への不従順という同じ問題は存在したが、異言の問題は異言の停止によって明らかに解決されていた。イグナティオス(AD.35-107)は、最初のクリスチャンが異言を話したエペソ教会に（訳者注：使徒19:6のこと）手紙を書いたが、彼もまた異言の賜物について何も語っていない。<br><br>第二に、使徒教父たちの地理的範囲が広いことが、彼らの沈黙を重要なものにしている。クレメンスはローマからコリントに手紙を書き、スミルナの司教ポリュカルポス(AD.69-155)はピリピの人々に手紙を書き、アンティオキアのイグナティオス(AD.35-107)はエペソ、マグネシア、トラレス、ローマ、スミルナ、フィラデルフィアの教会に手紙を書き、バルナバの手紙はおそらくアレキサンドリアから書かれた。『ヘルマスの牧者』はローマから書かれた可能性があり、パピアス(AD.60-130)はフリギアのヒエラポリスから、『ディダケー』はエジプトから、あるいはシリアかパレスチナから書かれた可能性があり、『ディオグネトスへの手紙』はおそらくアレクサンドリアから書かれた。もし異言の賜物が広範かつ豊富にあったなら、何らかの形で言及されるか、言及されたに違いない。<br><br>第三に、使徒教父の教義的性格から、異言に関する沈黙は重要である。彼らの著作は神学の教科書として書かれたわけではないが、新約聖書で教えられている主要な教義をほとんど網羅している。神論から終末論に至るまで、すべてについて言及されているが、異言について論じた形跡はない。<br><br>第四に、多くの著作の目的が異言の省略を重要なものにしている。例えば『ディオグネトスへの手紙』の目的は、キリスト教に関するディオグネトスの疑問に答えることであった。筆者は、偶像礼拝の愚かさ（1-2）、ユダヤ教の不十分さ（3-4）、キリスト教の優位性（5-12）を示しながら話を進める。これは、キリスト教の超自然的な性格を証明するものとして異言の賜物を提示する絶好の機会であったろう。前述のように、ローマのクレメンスはコリントの霊的誤りを正すために書いたが、異言については何も述べていない。エイレナイオスは、ポリュカルポスのピリピの信徒への手紙について、「そうすることを選び、自分の救いを心配している人々は、彼の信仰の性格と真理の宣教を学ぶことができる」と述べている。しかし、ポリュカルポスは異言がキリスト教の正常な性格の一部であることをどこにも示していない。<br><br>以上の考察から、使徒教父たちの沈黙には何の意味もないと、単純に片付けることができないことは明らかである。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading">殉教者ユスティノスの証言</h3>



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<p>紀元100年頃に生まれ、紀元163年から167年頃に殉教したユスティノスは、ローマ帝国を広く旅し、異言を語る現象に接したはずである。彼はサマリアで生まれ、エペソで回心し、キリスト教の教師として帝国中を旅した。このような広範囲な旅と教えにもかかわらず、ユスティノスは異言の賜物について何も語っていない。<br><br>しかし、彼の著作『トリフォとの対話』の中に、ユスティノスが異言を知っていたと思わせる箇所がある。ユダヤ人の預言者の賜物がキリスト者に移ったことを論じる中で、彼は次のように述べている。「それゆえ、あなたがたは、かつてあなたがたの民族の間にあった（賜物が）私たちに移ったのだと理解すべきである。」しかし、ジャクソン(Jackson)は「異言を語ることがここで意図されているかどうかは定かではない」と指摘する。これを裏付ける根拠はいくつかあり、ユスティノスが異言の賜物を念頭に置いていなかったことはほぼ確実である。第一に、ユスティノスは、彼が語っている賜物は、以前はイスラエルの民の間にあったと述べている点である。なぜなら、異言の賜物は教会に関連してのみ用いられるからである。第二に、ユスティノスは賜物について語るとき、7つの賜物を挙げているが、異言の賜物は含まれていない。これらの事実に照らせば、ユスティノスが異言の賜物を念頭に置いていなかったことは明らかである。<br><br>使徒教父たちの沈黙が重要であったように、殉教者ユスティノスの沈黙も重要である。ユスティノスが広く旅をしていたにもかかわらず、異言に言及していないという事実は、彼が異言現象に遭遇したことがなかったか、遭遇したとしてもその賜物に感銘を受けなかったことを示している。もう一つの事実は、彼がキリスト信仰の教師であったにもかかわらず、異言はキリスト信仰の教理の不可欠な部分でも重要な部分でもないと、沈黙によって示していることである。もし異言が重要な賜物であったなら、なぜ彼のように著名な人物がこの賜物について何も言及しなかったのだろうか。<br><br>ユスティノスの沈黙に重みを与えているもう一つの事実は、彼の著作の性質である。彼は『トリュフォンとの対話』の中で、ユダヤ教に対するキリスト教の優越性を示している。これは異言の賜物について論証する絶好の機会であっただろう。ギリシア人への護教的著作を書いたとき、彼はキリスト信仰と異教とを正確に検証すると明言している。両者の教えを比較することによって、キリスト信仰が真の信仰であることを証明すると述べている。異言の賜物というのは、彼が最も強く用いることのできるものの一つであっただろうが、彼はそれについて言及さえしていない。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading">エイレナイオスの証言</h3>



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<p>エイレナイオス(AD.130-202)の証言は非常に重要である。なぜなら、異言に関する彼の発言は、使徒たち以後の数世紀における異言の賜物の存在を示す証拠として指摘されてきたからである。エイレナイオスは、「私たちは、教会で多くの兄弟たちが、御霊によってあらゆる種類の言語を話すのを聞いている」と述べている。この記述を詳しく検討する前に、エイレナイオスの背景を調べる必要がある。エイレナイオスの生い立ちについてはほとんど知られていないが、わずかに残っている情報は非常に重要である。スミルナで育った少年時代、彼はポリュカルポスの話を聞き、彼から大きな影響を受けた。紀元177年頃、エイレナイオスは小アジアからガリアのリヨンに渡り、ポティヌスの下で司祭となった。この間、彼はリヨンで激しい迫害を目撃し、誠実な友人であったポティヌスが残酷に殺害されるのを目撃した。まだ長老であった彼は、司教エレウテロスに宛てた手紙を持ってローマに送られた。この手紙は、モンタヌス派の一団が、エレウテロスに自分たちに好意的な態度をとるよう説得するために書いたものだった。ポティヌスの死後、エイレナイオスはリヨンの司教となり、彼も殉教の死を遂げるまで仕えた。<br><br>本研究に関連して、エイレナイオスの背景には二つの点がある。第一に、彼は小アジアから来て、リヨンで奉仕した。小アジアとシリアでは、キリスト教に多くの不健全な影響、特にモンタヌスとその誤った聖霊論の影響があったことを理解することが重要である。エイレナイオスがリヨンに到着しても、モンタヌス主義者との関係は絶えることはなかった。小アジア出身のポティヌスとエイレナイオスに加えて、フリギア出身のアレクサンダーとペルガモン出身のアッタロスもリヨンに滞在していた。このような密接な関係から、良い意味でも悪い意味でも、精神的・教義的なつながりがあったのは当然のことであり、モンタヌス主義はリヨンの悪い要素の一つであった。異言に関するエイレナイオスの発言は、このような観点から見るべきものである。彼はその背景から、モンタヌスの影響を受けた人々の霊的な行き過ぎを聞いていたことは明らかである。<br><br>エイレナイオスの背景について観察すべき第二の点は、彼がポリュカルポスの影響を受けていたことである。この密接な関係から、彼がキリスト教の教義に関する知識の多くをスミルナのこの老司教から得たのは当然のことだろう。ポリュカルポスの著作に異言が含まれていないことは明らかであり、エイレナイオスの神学の大部分を異言が占めていないことはさらに重要である。もし異言が非常に重要であるなら、師も弟子もそれを強調したはずである。<br><br>しかし、彼らはそうしなかった。以上のことを念頭に置いて、エイレナイオスの異言に関する記述を吟味してみよう。<br><br>第一に、エイレナイオスは自分が異言を語ったとは言っていない。<br><br>第二に、彼は「私たちは聞いている」と複数形を使っていることから、彼の近くにいる人々を異言の賜物を持つ者として分類していないことが明らかである。コクセ(訳者注：英国の歴史家 Coxe)は、古いラテン語では「私たちは聞いた」という完了形[audivimus]が使われていることを指摘している。第三に、エイレナイオスはモンタヌス派と関係があったので、ロバートソンの言う通り、「彼の曖昧な記述は、小アジアのモンタヌス派に関する何らかの報告に基づいているのかもしれない……」。これらのことから、エイレナイオスの発言は、彼や彼の周囲の人々が、モンタヌス派の人々の間で伝えられていることを、過去のある時期に聞いたことがあるという意味であったと結論せざるを得ない。エイレナイオスの著作全体について言えば、確かに彼の神学の主眼と重点は、異言の賜物にはなかったと言える。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading">テルトゥリアヌスの証言</h3>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>北アフリカの著名な神学者テルトゥリアヌスもまた、モンタヌスの影響を受けた一人である。彼は広く旅をし、傑出した学者であったが、異言の賜物に関する言及は少なく、モンタヌス主義との関係を裏付けている。魂が一種の身体性を持っていることを示そうとして、彼は魂の属性について述べているが、そのひとつが霊的な賜物を持つ能力である。<br><br>この点を説明するために、彼は天使と会話したり、その他の恍惚体験をしたというモンタヌス派の女性の例を挙げている。異言の賜物については言及していないが、「啓示の賜物があり、聖霊によって恍惚的な幻視を体験する……」と表現している。もしこれが賜物の活動に対する証しであるとすれば、それは弱い証しであり、当時の通常のキリスト教的体験からかけ離れていることは確かである。<br><br>テルトゥリアヌスは『マルキオンへの反論』の中で異言の賜物について具体的に言及している。ここでも彼は、当時の異言については何も語っていない。彼はパウロの書簡を取り上げ、それぞれの書簡に見られる弁証的価値を指摘している。彼は書簡を一通一通、章ごとに取り上げている。第１コリント12章から14章に述べられている霊的賜物については、すべての人が同じ賜物を持っているのではなく、御霊が人によって異なる賜物を与えていることを認めている。彼は、パウロが賜物について述べていることを論じるだけで、彼の時代における賜物の使用については言及しない。彼はマルキオンに対して、使徒たちが示したこれらの賜物を複製するよう求めているが、自分がその賜物を行使する者を見たとも知っているとも言っていない。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading">モンタヌスの証言</h3>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>異言の現れに関する唯一の明確な記述は、モンタヌスの活動に関するエウセビオスの記述にある。そこには、モンタヌスが「魂を奪われ、突然、錯乱と恍惚の状態に陥った。彼は取りつかれたようになって奇妙な言葉を発し始め、初代から代々伝えられてきた教会の言い伝えと慣習に反することを預言した」とある。「異言」という言葉は明白に使われていないが、リーツマン(Lietzmann)が指摘するように、モンタヌスがその体験の中で「グロッソラリア(意味不明な発声)の特徴をすべて示した」ことは明らかである。モンタヌスの証言の意義は以下の点である。第一に、彼は異端とみなされた。彼は聖書に従わず、周囲の人々もそれを認めていた。第二に、彼が特に異端とされたのは、聖霊論の領域と、この賜物の強調であった。しかし、このような強調にもかかわらず、モンタニストの活動は使徒たちが行使した賜物にははるかに及ばないと考えられていた。第三に、リーツマンは、この恍惚状態と意味不明な発声という現象が、当初は急速に広まらなかったと指摘している。これは、このような極端な現象が通常のキリスト信仰の体験の一部でないことを示しているように思われる。もしこれが一般的な習慣であったなら、多くの人がこれを通常のクリスチャン生活の一部であると、もっと自然に受け入れたはずである。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading">オリゲネスの証言</h3>



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<p>オリゲネスの神学のすべてが正統的とは言えないかもしれないが、彼が当時最も優れた学者の一人であったことは誰もが認めている。彼は幅広い読書を通じて当時の事情に通じていただけでなく、自らも広く旅をし、世界中から生徒を集めて教えていた。もし異言が広く行われていたなら、オリゲネスはそれについて何か知っているはずであり、彼の膨大な著作のどこかで触れているはずである。しかし、彼はこの賜物について明確な記述をしておらず、彼の証言によれば、特別な賜物はなくなっていた。<br><br>オリゲネスは『ケルソス駁論』の中で、霊的賜物について言及している。ケルソスは、旧約の預言者たちがフェニキアやパレスチナの一部の者たちと同じように、愚かな身振りや動作をしてから「預言」を語ると非難している。オリゲネスが引用するケルソスの言葉によれば、「これらの約束には、奇妙で熱狂的で全く理解不能な言葉が付け加えられている。それは理性的な者には全く意味が分からないほど曖昧であり、結局、愚か者や詐欺師が自分の目的に合うように勝手に解釈する口実を与えるものに過ぎない」という。<br><br>この批判に対するオリゲネスの反論は、まさにこの議論に関わるものである。彼は、キリストの宣教の初期や昇天後には聖霊がその臨在を示すためのしるしや外面的な証が与えられていたが、それらは次第に減少し、もはや広く行われてはいないと述べている。さらに彼は、ケルソスが人から聞いた話をもとに述べていることは偽りであり「ケルソスの時代には古代の預言者に類する者は現れていない」とも述べている。つまり、オリゲネスは、彼の時代にはこれらの賜物がもはや機能していないと明言しているのである。彼は異言の賜物が彼の時代に繁栄しているとは言っておらず、むしろそのような賜物は衰退したと述べているのだ。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading">クリュソストモスの証言</h3>



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<p>教父の最後の一人は、優れた聖書解釈者であり、優れた説教者であったクリュソストモス(AD.347－407)である。クリュソストモスはアンティオキアで学び、宣教した後、コンスタンチノープルの総主教となった。コンスタンチノープルという大都市の宗教指導者として、彼は帝国中のキリスト教徒や教会と接触していたに違いない。コリント人への手紙第一の霊的賜物に関するメッセージの中で、彼は「その場所全体が非常に不明瞭である」と告白し、さらにこう付け加えている。「しかし、その不明瞭さは、言及されている事実に対する私たちの無知と、当時は起こっていたが今は起こらなくなったような、その事実の消滅によって生じたものである」。これは、4世紀の博識で宗教的指導者であった人物が、彼の時代には異言はもはや行われていないと明言しているのである。キリスト教界では、異言の賜物は普通のことではなく、むしろ知られていない！ クリュソストモスの地位と立場は、彼の証言を極めて重要なものにしている。少なくともこの時代には、異言の賜物は消滅していたことは明らかである。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading">一般のクリスチャンの証言</h3>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>ある人は、これらの人たちは神学者であり、教会の指導者であって、一般のクリスチャンの特徴を反映していないと反論するかもしれない。教会の指導者たちが異言のような現象を見過ごすことは考えられないが、専門的な護教論者の中には、一般的なクリスチャンの真の姿を反映していない者がいるかもしれない。しかし、カーペンター(Carpenter)は、2～3世紀の一般的なキリスト信仰を反映しているのは、まさに使徒教父たちであると指摘する。先に述べたように、使徒教父は異言についてまったく言及していない。パピルスに残されている一部の初期キリスト教徒が用いた秘儀の言葉でさえ、意味不明の言葉はあっても、異言の賜物とは類似していない。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<h3 class="wp-block-heading">結論</h3>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>西暦100年から400年頃にかけて、ローマ帝国のほぼ全域で活動した初期のキリスト教指導者たちの証言を検証すると、1世紀の奇跡的な賜物は消滅し、もはやキリスト信仰を確立するために必要とされなくなったことが明らかである。さらに、これらの賜物が存在していたとしても、それに反する多くの証言があるにもかかわらず、それは広範囲にわたるものでもなく、通常のクリスチャンの経験でもなかったことがはっきりしている。<br>このような現象に類する唯一の明確な言及は、異端者モンタヌスとその誤った霊の理解に影響を受けた者たちに関連するものである。これら全ての証拠は、パウロが「異言はやむ」(Ⅰコリント13:8)と預言した言葉が真実であったことを示している。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>出典<br><em>The Gift of Tongues in the Post Apostolic Church (A.D. 100-400)</em><br><em>Bibliotheca Sacra Vol.122</em> (Apr 1965)<br>Cleon L. Rogers, Jr.</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>シュネムの女</title>
		<link>https://emmaus-press.com/2025/04/20/shunammite/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[emao]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 20 Apr 2025 14:19:09 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[クリスチャン生活]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://emmaus-press.com/?p=2560</guid>

					<description><![CDATA[シュネムの女 列王記第二　４章8～37節 山岸登&#160; ここに記されている女性は上品な、そして社交的で、隣人愛の精神に富んだ、その上、彼女は物惜しみせずに人の世話をする心の広い人でした。彼女には神を信じる信仰もあり [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h1 class="wp-block-heading has-text-align-center is-style-vk-heading-plain" id="block-8f6ae8cf-b9b1-4395-bb52-d38d39ed54b1">シュネムの女</h1>



<h3 class="wp-block-heading has-text-align-center is-style-vk-heading-plain">列王記第二　４章8～37節</h3>



<h5 class="wp-block-heading has-text-align-center" id="block-9a327231-02ee-4a1c-ae5a-18e5d846cc39">山岸登&nbsp;</h5>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-full" id="block-e3b26d84-2c8e-4910-aa9c-7c82f61b83b7"><img loading="lazy" decoding="async" width="509" height="700" src="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/04/Harold_Copping_-_The_Shunammite_woman_-_MeisterDrucke-388981.webp" alt="" class="wp-image-2561" srcset="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/04/Harold_Copping_-_The_Shunammite_woman_-_MeisterDrucke-388981.webp 509w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/04/Harold_Copping_-_The_Shunammite_woman_-_MeisterDrucke-388981-218x300.webp 218w" sizes="auto, (max-width: 509px) 100vw, 509px" /></figure>
</div>


<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>ここに記されている女性は上品な、そして社交的で、隣人愛の精神に富んだ、その上、彼女は物惜しみせずに人の世話をする心の広い人でした。彼女には神を信じる信仰もありました。もしこのような姉妹が教会にいたら、教会にとってきっと大きな祝福となることでしょう。</p>



<p>彼女の夫はかなり裕福で、夫は彼女を信頼していたようです。ですから何でも彼女がすることに夫は反対しませんでした。彼女の家の脇の道をひとりの老人がしばしば通過して行きました。彼女はその老人が、神に仕えている人に違いないと判断しました。その判断は正しかったのです。その老人は、預言者エリシャでした。彼女はその老人がどのような働きをしているか知らずに、その老人の苦労に報いたいという思いを抱きました。それで、彼女は自分の家の屋上に小さな部屋を作り、その中に寝台と、机と椅子と燭台を備え、その老人にその部屋を休息場に使ってくれるように頼みました。エリシャはその厚意を喜んで受け入れました。そして彼はそこを通る度に彼女の家に立ち寄り、そこで一休みしました。</p>



<p>しばらくして、彼は彼女にお礼のためのお返しをしようと考え、彼女に何か欲しいものがあるかと尋ねたところ、彼女は<strong>「私は私の民の間で、幸せに暮らしております」</strong>と答えました。その意味は、私は満足しているから欲しい物は何一つないということでした。</p>



<p>彼女は自分の状態で満足していましたが、神は満足しておられませんでした。では神は彼女の何について満足しておられなかったのでしょうか。それを人間の結婚を例にして考えてみましょう。</p>



<p>ある男女が結婚したとします。妻となった女性は、自分が幸せであると言いました。その理由は、夫が彼女に欲しい物は何でも与えてくれるからで、立派な新築の家に住むことができ、家具や調度が十分に整っているからであると言いました。彼女を愛している夫は、その言葉を聞いても満足できませんでした。なぜならば、彼女が自分の身の回りの物によって満足しているのであって、夫と共にいることで満足していると言わなかったからです。</p>



<p>私たちが神が与えてくださった物を喜ぶことと、与え主なる神を喜ぶこととは、別であるのです。同様に、神が私たちに与えてくださった救いを喜ぶことと、救いを与えてくださった神を喜ぶこととも別であるのです。当然、私たちは神の賜物である救いを喜ぶべきです。それをいかに喜んでも喜びすぎることはありません。しかし、神は私たちが神御自身を喜ぶことを求めておられるのです。私たちが神御自身を喜ぶとは、たとい神様以外に何もなくても、神様との交わりをのみ喜びとすることを意味しています。</p>



<p>もう一つの実例は、放蕩息子の兄です。彼は父親といつも一緒にいましたが、父親との交わりよりも、子やぎ一匹を屠って料理を作り、それを友だちと一緒に食べることの方を求めていたのです。</p>



<p>彼女には子どもがいないことを知ったエリシャは<strong>「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになる」</strong>という預言を与えました。その預言のとおり、彼女に男の子が与えられました。彼女はその神の賜物をこの上なく喜んだはずです。恐らく彼女は、それまで、その男の子なしでも自分が幸せだと、どうして思うことができたのだろうかと疑問に感じたことでしょう。その男の子は彼女の心の全てを占めていたことでしょう。</p>



<p>しかし、神は彼女の愛して止まないその男の子を取り上げてしまわれました。その子が突然死んでしまったのです。その時、彼女は、その事件に神の意図を読み取りました。彼女は神が彼女に、神に祈り求めるように命じておられることを読み取りました。彼女はさっそくエリシャのところに駆けつけました。彼女は、神がエリシャを使って、その男の子を生き返らせることがおできになると信じました。神は彼女の信仰に応えて、その子を生き返らせてくださいました。</p>



<p>このことを通して、彼女は神が絶対主権者であることを、そして神は人を生かすことも殺すこともできることを、そして万物は神のものであり、神はそれを人に与えることも、人から取ることもおできになることを認めさせられたのです。その結果、彼女は、彼女の生活の全てのことにおいて、神が第一でなければならないことを学んだはずです。</p>



<p>このことから、私たちも学ばなければならないことが非常に多いはずです。</p>



<p>万物の造り主であられ、所有者であられる神は、全てのものを私たちにお与えになります。しかし、取り上げることもおできになります。すなわち、今私たちに与えられている全てのものは、神からの預かりものであるということです。私たちのからだも、いのちも、全てのものは神のものであるのです。それらを私たちは自分のものと思ってはならないのです。</p>



<p>たとえば財産です。神はある人々に大きな財産を預けられます。もしその人がそれを、自分が自由に使える所有物と考えるならば、その富がその人の禍の元になり得ます。しかし、それが神からの預かり物であり、所有者は神様であることを認めているならば、その富は禍とはなりません。その人は、その富の管理者として、その富をもって神の栄光を表すことが許されるからです。</p>



<p>最も重要なことは、私たちが自分自身を、自分の所有物と思ってはならないことです。私たちが生きるのも主のため、死ぬのも主のためです。主は私たちを生かすこともできますが、殺すこともおできになります。御自分のものにするために、御子の血をもって私たちを買い取られた主は、神の栄光を現すために人生を用いるように私たちに命じておられます。もし私たちが、自分の肉の欲に従って自分の人生を用いるならば、その人生は全く価値のないものになってしまいます。しかし、もし神の栄光のために神に用いていただくならば、非常に大きな祝福となります。</p>



<p>私たちの真実な喜び、祝福、幸せの源は神御自身であって、神が私たちに与えてくださったものではないのです。私たちがその事実に気が付き、生活そのものを楽しむのではなく、神との交わりを人生の第一の目的とするまで、神は決して満足されません。</p>



<p>このシュネムの女の<strong>「私は私の民の間で、幸せに暮らしております」</strong>は、「私は私の神との交わりの中で、幸せです」に変わったはずです。</p>



<p>神のみを、自分の喜び、力の源泉としている者は真実に幸いな者と言えます。どうか私たちの全てが、この真理に従って生きる者でありますように。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>ローマ６章にある、罪に対する勝利の秘訣</title>
		<link>https://emmaus-press.com/2025/03/11/romans6/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[emao]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 11 Mar 2025 13:21:56 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[クリスチャン生活]]></category>
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					<description><![CDATA[ローマ６章にある、罪に対する勝利の秘訣 前田大度&#160; ローマ人への手紙の６章には、私たちの歩みのために不可欠の、また最重要のテーマが記されています。それは、クリスチャンがどのようにして罪の力に勝利して歩むことがで [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h1 class="wp-block-heading has-text-align-center">ローマ６章にある、罪に対する勝利の秘訣</h1>



<h5 class="wp-block-heading has-text-align-center" id="block-68542884-42f6-4ece-917f-4ab6b37fcf52">前田大度&nbsp;</h5>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-full is-resized"><img loading="lazy" decoding="async" width="600" height="482" src="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/03/cut.webp" alt="" class="wp-image-2539" style="width:535px" srcset="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/03/cut.webp 600w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/03/cut-300x241.webp 300w" sizes="auto, (max-width: 600px) 100vw, 600px" /></figure>
</div>


<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>ローマ人への手紙の６章には、私たちの歩みのために不可欠の、また最重要のテーマが記されています。それは、クリスチャンがどのようにして罪の力に勝利して歩むことができるかということです。</p>



<p>まず、ローマ６章の真理は、すでにキリストの血によって義とされている信者のための教えです。まだキリストを信じていない者には、罪に対して勝利して、神様にお仕えしたいという願望がそもそもありませんから、彼らにローマ６章の真理を語っても無意味です。彼らに語るべきなのは、彼らを待っている地獄の刑罰と、彼らをそこから救うために十字架で血を流し、贖いを成し遂げ、復活されたキリストの福音です。</p>



<p>また、救われてはいても、罪に勝利をして、キリストにもっと献身的に仕えたいという願いがないなら、せっかくのローマ６章の真理も、その人がその必要性をあまり感じていないために、十分に理解することができません。聖書の真理は信仰によって理解できる教えです。ですから、真理を実行したいと願わない者に、神様は理解力を与えてくだらないのです。</p>



<p>しかし、すでにキリストを信じ、救いの確信を持ち、キリストのご愛に応えて献身的に生きたいと願う者にとって、ローマ６章の教えは最も貴重な真理です。まさに信者にとっての福音です。実のところ、この真理を知らずして、正しい信仰者の歩みは不可能です（正しい牧会も不可能です）。なぜなら、私たちが主イエスの愛に応えて歩みたいと願うときに最大の妨害となるのが（他人の中ではなく）自分の中にある強力な罪の力だからです。</p>



<p>私たちには、堕落した人間性である肉があります。肉は私たちが天に行くまで、改善も改良もされることなく、私たちの内に存在し続けます。この肉は完全に罪の支配下にあるので、決して神に従いませんし、従うことができません。神から与えられた新しい命は「もっと罪から離れて、きよい歩みをしたい。もっと兄弟姉妹を愛して良い交わりを持ちたい。もっと福音伝道に励んで、主のために用いられたい」という素晴らしい願望を持つのですが、すぐに肉が顔を出してしまい、罪を犯し、失敗してしまうのです。問題の根本的解決策はローマ６章の真理にあります。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>実に、キリストが死なれたのは、ただ一度だけ、罪に対して死なれたのです。キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このようにあなたがたも、事実、自分が罪に対して死んだのであり、キリストにあって生きていると勘定し続けなさい。（ローマ人への手紙　６章10、11節 エマオ出版訳）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>キリストが死なれたのは、私たちを地獄から救うためだけでなく、私たちを罪の力から解放するためでもありました。私たちを地獄から救うために、キリストは私たちの犯した様々な罪（複数）のために、身代わりに死んでくださいました。しかし、ローマ６章で語られているのは、キリストが私たちの内にある罪（単数）に対して死なれたということです。罪なきキリストが、私たち罪人の身分と立場を取って、ただ一度、罪に対して死んでくださったのです。</p>



<p>キリストを信じる前の私たちは罪の奴隷でした。罪が私たちの主人でした。ですから私たちは、罪を犯さずにはいられなかったのです。奴隷は自分の力で主人から自由になることはできませんが、ただ一つ奴隷が主人から自由になれる方法があります。それは死ぬことです。死んでしまえば、主従関係は終了します。神様はまさにこのことを実行してくださったのです。</p>



<p>キリストがただ一度だけ、罪に対して死んでくださったことによって、キリストと一体とされている信者もまた、キリストと共に罪に対して死んでしまったのです。これは私たちの体験ではありません。しかし、これは現実に起きた事実です。キリストが、罪の奴隷という私の身分と立場を取って、私の主人であった罪に対して死んでくださったのです。そのことによって、私も、すでに罪に対して死んだ者となっているのです。罪は死んでおらず、相変わらず私の中に居座っています。（聖歌の中に「十字架、十字架、そこに我の罪も共に死せり」という歌詞がありますが、これは不正確です。私の罪は十字架で死んでいません。私が罪に対して死んだのです）</p>



<p>しかし、私が罪に対して死んだことによって、罪との関係は断ち切れました。罪はもはや私の主人ではなく、私はもはや罪の奴隷ではありません。神様はそう見ておられ、そう宣言しておられます。これは現実であり、事実です。私の責任は、自分の力で何とか罪に打ち勝とうと努力することではありません。罪に対して死んだというみことばの宣言をそのまま単純に信じることです。</p>



<p>私たちは、自分が体験したことのないことを理解するのは難しく感じるものです。ローマ７章の「私は自分が欲している善を行っていません。その反対に私が欲していない悪を実行しています」というパウロの体験はよく分かるのですが、「事実、自分が罪に対して死んだのであり、キリストにあって生きている」というのは、なかなか理解できないものです。しかし、ローマ６章の真理は、決して一部の信者、牧師や宣教師しか理解できない難しい教えではありません。全ての信者が理解できる、また理解して実行すべき単純な真理です。<br>　</p>



<p>キリストが十字架で死なれたこと、また復活されたこと、これは歴史的な事実です。同様に、キリストと一体とされている私が罪に対して死んだこと、そして今や神の栄光を表すために生きる者となっていることも事実なのです。ですから、私たちがこの事実を認め、キリストが私を強力な罪の力からも解放してくださる方であると信じればよいのです。</p>



<p>キリストを地獄からの救い主として信じるのは、生涯ただ一度でよいのですが、キリストを罪の力からの救い主として信じることは、私たちの歩みに関することなので、毎日信じ続けなければなりません。日々、キリストが私に勝利を与えてくださると信じ、キリストに頼ればよいのです。そうすれば、キリストが必ず勝利を与えてくださいます。</p>



<p>私たちの内に与えられている新しい命は、罪に勝利したいと願うはずです。あなたにもそのような願いがあるはずです。それとも、そのような願いはなく、肉に勝利できるはずはない、自分にはできるはずはないと言って、あきらめてしまうのですか。それはみことばを信じない不信仰です。罪の力から解放し、罪に対する勝利を与えてくださるキリストを信じない不信仰です。不信仰からは何も良いものは出てきません。感謝も賛美も勝利もありません。</p>



<p>罪の悪習慣から抜けられないとき、主にある兄弟姉妹を心から受け入れられないとき、怒りや憤りを押さえられないとき、自己憐憫の思いが心から湧いてくるとき、そのような罪に支配されているのは、私たちの肉です。肉は私たちの内に存在していますが、この肉はもはや私とは無関係です。罪に支配されてきた、肉に過ぎなかった私は、キリストと共に死んでしまったからです。今や私はキリストと共によみがえって、神の栄光を表すために生かされているのです。そう認め続けましょう。そう勘定し続けましょう。キリストを信頼し続けましょう。</p>



<p>私たちに必要なことは三つです。第一に、自分は罪に対して死んでおり、神を主人として生きていると認めることです。第二に、私を罪の力に勝利させてくださる方として、キリストに信頼することです。第三に、キリストとの交わりの内にとどまり続けることです。神様は、私たちの信仰に応えて、信者に内住しておられる聖霊を通して、勝利を与えてくださいます。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>逃げ出した青年</title>
		<link>https://emmaus-press.com/2025/01/30/runaway/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[emao]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 30 Jan 2025 14:07:43 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[クリスチャン生活]]></category>
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					<description><![CDATA[逃げ出した青年 前田大度  ある青年が、素肌に亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。（マルコの福音書　14章51～52節） 主イエ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h1 class="wp-block-heading has-text-align-center">逃げ出した青年</h1>



<h5 class="wp-block-heading has-text-align-center" id="block-68542884-42f6-4ece-917f-4ab6b37fcf52">前田大度 </h5>


<div class="wp-block-image">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img loading="lazy" decoding="async" width="1024" height="718" src="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/01/lucas-favre-JnoNcfFwrNA-unsplash1-1024x718.jpg" alt="" class="wp-image-2459" style="width:535px" srcset="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/01/lucas-favre-JnoNcfFwrNA-unsplash1-1024x718.jpg 1024w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/01/lucas-favre-JnoNcfFwrNA-unsplash1-300x210.jpg 300w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/01/lucas-favre-JnoNcfFwrNA-unsplash1-768x539.jpg 768w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2025/01/lucas-favre-JnoNcfFwrNA-unsplash1.jpg 1500w" sizes="auto, (max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></figure>
</div>


<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>ある青年が、素肌に亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。（マルコの福音書　14章51～52節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>主イエスがゲッセマネの園で捕らえられたときに、裸で逃げ出した青年の話は、ただマルコだけが書き記しています。ですから、この青年こそ、ほかならぬ、マルコの福音書の著者であるマルコ自身であるという説があります。そうであるかどうかは別にしても、主イエスを見捨てて、しかも裸で逃げていったのは、実に恥ずかしく、また、情けない姿であると言えます。</p>



<p>マルコは裕福な家の出であり、彼の母も信者でした。家には召使いがいて、そこは信者たちがしばしば集まる場所でした。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大勢の人が集まって、祈っていた。（使徒の働き　12章12節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>彼はペテロと行動をともにし、初代のクリスチャンたちの残した記録によれば、ペテロの通訳者であったと言われています。</p>



<p>マルコは、パウロとともに第一回目の伝道旅行に助手として同行しました。使徒の働き13章5節に「彼らはヨハネを助手として連れていった」と記されているのは、ヨハネ・マルコのことです。けれどもマルコはこの時、伝道旅行の途中で引き返してしまっています。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのベルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れてエルサレムに帰った。（使徒の働き　13章13節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>このために、第二回目の伝道旅行の出発に際して、パウロはマルコを連れて行くことに反対し、このことでバルナバと衝突しました。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネも一緒に連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者は一緒に連れて行かない方がよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて船でキプロスに渡って行った。パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。（使徒の働き　15章37～40節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>マルコが第一回目の伝道旅行中、途中で帰ってしまったのは、伝道よりも仕事を優先したためであったのです。マルコの福音書に出てくる、裸で逃げ出した青年がマルコ自身であったとするなら、マルコは二度も敵前逃亡をしたということになります。ここぞという時に、信仰に立つことをせずに退き、逃げてしまっているのです。伝道者パウロが、重要で困難な伝道旅行に、このような人物を連れていくことはできないと判断したのは当然と言えます。そのような判断を下されるに十分な理由が、マルコにはあったのです。</p>



<p>では、このような弱気な人間は、主の有用な働き人に変えていただくことはできないのでしょうか。大伝道者パウロから失格者との烙印を押された人物は、もう用いられないのでしょうか。もちろんそのままではいけませんし、そのままでは用いられません。けれども、自分の失敗を謙虚に認め、パウロを恨むのではなく、自分の弱さを正直に認め、自分自身をさばいて悔い改め、主に助けを願い求めるなら、主は必ず助け導いてくださるのです。</p>



<p>マルコは主のお取り扱いを受けました。主はマルコを成長させてくださいました。パウロの証言を聞きましょう。</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。（テモテへの手紙第二　4章11節）</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>18年前、「彼を連れて行くことはできない」と判断された同じ人物が、そう判断した同じパウロによって、今は「彼を連れてきてください」と言われているのです。マルコは主の働きに、それも、これまで以上に困難な働きに、役に立つ者と変えられていたのです。神の恵みはなんと豊かに注がれたことでしょう。マルコに対するパウロの評価は、完全に変わっていました。そして、さらに、このマルコが、主の御生涯を記した新約聖書の四つの福音書の一つを書き記すために、選ばれ、用いられたのです。実に驚くべき神の恵みです！</p>



<p>さて、私たちはマルコの生涯から学ばなければならないことがたくさんあります。私たちもまた、残念ながら、多くの失敗を犯す者たちです。不信仰ゆえに、恐れをなして、伝道や奉仕の場を退いたり、愚かな過ちを犯した自分を見て落胆することもあります。兄弟姉妹たちの信頼を失い、神がお立てになったしもべたちから、奉仕にふさわしくないと判断されることが、ひょっとしてあるかも知れません。けれども、たとえ私たちがどの様に愚かな者であっても、悔い改めて、主に助けを求めるなら、主は憐れんでくださいます。そして主の働きのために役に立つ者としてくださるのです。悔い改めるためには、自分の失敗や愚かさをしっかりと見なければなりませんが、前進するためには自分を一切見ることなく、ただ主だけを頼りにしなければなりません。どうか、主の憐れみをいただいて、主に益々用いていただくことを求めましょう。そして、主の務めのために役に立つ者としていただきましょう。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>法的赦しと親の赦し</title>
		<link>https://emmaus-press.com/2024/12/03/forgiveness/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[emao]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 03 Dec 2024 05:47:02 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[クリスチャン生活]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://emmaus-press.com/?p=2423</guid>

					<description><![CDATA[法的赦しと親の赦し――その違い―― William Macdonald&#160; 聖書に二つの異なる赦しについて書かれています。聖書を注意深く学ぼうとするなら、その違いを区別しなければなりません。その二つとは法的赦しと [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h1 class="wp-block-heading has-text-align-center">法的赦しと親の赦し<br class="vk_responsive-br vk_responsive-br-xs"/>――その違い――</h1>



<h5 class="wp-block-heading has-text-align-center is-style-default">William Macdonald&nbsp;</h5>


<div class="wp-block-image is-style-default">
<figure class="aligncenter size-large is-resized"><img loading="lazy" decoding="async" width="1024" height="683" src="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2024/12/tingey-injury-law-firm-6sl88x150Xs-unsplash1-1024x683.jpg" alt="" class="wp-image-2424" style="width:535px" srcset="https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2024/12/tingey-injury-law-firm-6sl88x150Xs-unsplash1-1024x683.jpg 1024w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2024/12/tingey-injury-law-firm-6sl88x150Xs-unsplash1-300x200.jpg 300w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2024/12/tingey-injury-law-firm-6sl88x150Xs-unsplash1-768x512.jpg 768w, https://emmaus-press.com/wp-content/uploads/2024/12/tingey-injury-law-firm-6sl88x150Xs-unsplash1.jpg 1500w" sizes="auto, (max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></figure>
</div>


<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-md--margin-top"></div></div>



<p>聖書に二つの異なる赦しについて書かれています。聖書を注意深く学ぼうとするなら、その違いを区別しなければなりません。その二つとは法的赦しと親の赦しです（これらは聖書にでてくる用語ではありません）&nbsp;。</p>



<p>やさしく説明すると、法的赦しというのは裁判官が下す赦しであり、親の赦しというのはお父さんが何かを赦してくれることです。前者は法廷で、後者は家庭で使われる用語です。&nbsp;</p>



<p>まず法廷の方から始めましょう。神様は裁判官であり、罪深い人間は裁判にかけられた人です。人間は罪を犯したので有罪であり、その刑罰は永遠の死です。しかし主イエスが登場されこう宣告されます。「人間の罪に相当する代価は私が支払います。私は彼のために身代わりとなって死にます。」これこそ、主がカルバリの十字架の上で成してくださったことなのです。さて裁判官は、罪深い人間にこう宣告します。「もしあなたが私の息子をあなたの主また救い主として受け入れるなら、私はあなたを赦しましょう。」人が救い主を信じるとき、すぐさま、自分の罪はみな赦されたとの法的赦しを受けます。その人はもはや決して地獄において罪の刑罰を支払うことはなくなりました。なぜならキリストがそれらすべてを支払ってくださったからです。赦されたこの罪人は、今や新しい関係に入ります。神はもはや彼の裁判官ではなく、彼の父となりました。&nbsp;</p>



<p>さて次に親の赦しを説明するために家庭に移りましょう。神は父であられ、信者はその子です。軽率にも子供がある罪を犯してしまいました。では何が起こるでしょう。神はこの子供に、罪に対する死を宣告されるでしょうか。もちろんそのようなことはなさいません。なぜなら神はもはや裁判官ではなく父であるからです。では何が起こるのでしょう。そうです。家族の交わりが壊されるのです。楽しい家族の雰囲気がなくなってしまいます。この子供は自分の救いを失いはしませんが、救われていることの喜びを失います。我が子を交わりに回復するためにと意図された父の懲らしめを受けなければなりません。そして子供が自分の罪を告白するときに、親の赦しを受けるのです。&nbsp;</p>



<p>法的赦しは、回心の時ただ一度だけなされるものであり、親の赦しは信者が罪を告白しそれを捨てるときに何度もなされます。このことについて主イエスは、ヨハネによる福音書13章8節から10節で教えておられます。私たちは、罪の罰から救われるための新生の水浴はただ一度しか必要がないのですが、親の赦しを得るために洗っていただくことはクリスチャン生活の中で何度も必要なのです。&nbsp;</p>



<p>これら二つの赦しの違いを図で示すと次のようになります。&nbsp;</p>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<figure class="wp-block-table"><table class="has-fixed-layout"><tbody><tr><td></td><td><strong>法的赦し&nbsp;</strong></td><td><strong>親の赦し&nbsp;</strong></td></tr><tr><td>その人の立場&nbsp;</td><td>罪人（ローマ3:23）&nbsp;</td><td>子供（１ヨハネ3:2）&nbsp;</td></tr><tr><td>神との関係&nbsp;</td><td>裁判官（詩篇96:13）&nbsp;</td><td>父（ガラテヤ4:6）&nbsp;</td></tr><tr><td>罪の結果&nbsp;</td><td>永遠の死（ローマ6:23）&nbsp;</td><td>交わりの破壊（１ヨハネ1:6）&nbsp;</td></tr><tr><td>キリストの役割&nbsp;</td><td>救い主（１テモテ1:15）&nbsp;</td><td>大祭司・助け主（ヘブル4:14-16、１ヨハネ2:1） </td></tr><tr><td>その人に必要なもの&nbsp;</td><td>救い（使徒16:30）&nbsp;</td><td>救いの喜び（詩篇51:12）&nbsp;</td></tr><tr><td>赦しの手段&nbsp;</td><td>信仰（使徒16:31）&nbsp;</td><td>告白（１ヨハネ1:9）&nbsp;</td></tr><tr><td>赦しの種類&nbsp;</td><td>法的（ローマ8:1）&nbsp;</td><td>親が子に対するもの（ルカ15:21-22）&nbsp;</td></tr><tr><td>無視した結果&nbsp;</td><td>地獄（ヨハネ5:24）&nbsp;</td><td>懲らしめ(１コリント11:31, 32) <br>キリストの裁きの座において報いを失う (１コリント3:15) </td></tr><tr><td>肯定的結果&nbsp;</td><td>新たな関係（ヨハネ1:12）&nbsp;</td><td>交わりの更新（詩篇32:5）&nbsp;</td></tr><tr><td>頻度&nbsp;</td><td>一度：新生の水浴（ヨハネ13:10）&nbsp;</td><td>何度も：多くの洗い（ヨハネ13:8）&nbsp;</td></tr></tbody></table></figure>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p> <br>　以下に挙げたみことばは、キリストの御業のゆえに罪人にもたらされる、ただ一度の赦しについて語っている聖句です。 </p>



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<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。（エペソ1章7節）&nbsp;</p>
</blockquote>



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<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。（エペソ4章32節）&nbsp;</p>
</blockquote>



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<p>以下に挙げたみことばは、親の赦しを扱っている聖句です。&nbsp;</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。（マタイ6章14-15節） </p>
</blockquote>



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<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>また立って祈っているとき、だれかに対して恨み言があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。（マルコ11章25節）&nbsp;</p>
</blockquote>



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<p>上に挙げたみことばのうち二つが神を父と呼んでいることに注目してください。なぜなら、ここで扱われているのは父の赦しであるからです。またここで、私たちの罪が赦されるのが、私たちが人を赦すかどうかにかかっていることにも注目してください。法的赦しにおいてはこれとは異なります。他人を赦すかどうかは、救いの条件ではありません。しかし親子の間の赦しにおいては、これは真実なことです。もし私たちが人を赦さないなら、私たちの父も私たちを赦してくださいません。 </p>



<p>マタイ18章23節から25節で主イエスは、王に一万タラントの借りを赦してもらったしもべの話をされました。しかしこのしもべは、仲間のしもべに貸した100デナリを赦免しようとしませんでした。王は怒ってこの男を、借金を返すまで牢に投げ入れました。イエス様は次のようにおっしゃってこのたとえを終えられました。</p>



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<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p>あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。</p>
</blockquote>



<div class="wp-block-vk-blocks-spacer vk_spacer vk_spacer-type-margin-top"><div class="vk_block-margin-sm--margin-top"></div></div>



<p>ここで扱われているのもまた父の赦しについてです。人を赦そうとしない精神は罪であり、神は私たちがその罪を告白し捨てるまで、私たちの親として赦しを与えることをなさらないのです。&nbsp;</p>



<p>聖書を学ぶわくわくするような楽しさの一つは、これら基本的な区別を見分け、そしてそれらを毎日の学びに適応することです。これからあなたが聖書の中に赦しという主題を見いだすときには、こう言うことができます。「この聖句は法的赦しについて語っているのだろうか。そうでないならこれは、父がご自分の子を赦すことについて語っているに違いない。」&nbsp;&nbsp;</p>
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