恵みと責任

山岸登

というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ローマ人への手紙6章14節)

このように語ったパウロは、一見矛盾するようなことを次のように語っています。

私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。(ローマ人への手紙7章14~19節)

ローマの7章のパウロのことばを読むと、パウロはあたかも罪の濁流に巻き込まれ、溺れかかっているように見えます。パウロは罪に支配され、打ちのめされ、罪の奴隷であり、罪に服従させられています。

では、6章14節のパウロが本当のパウロであり、7章のパウロが偽りのパウロなのでしょうか。それとも、その逆で、6章のパウロが偽りで、7章のパウロが本当のパウロなのでしょうか。答えは、両方とも本当のパウロであり、キリストを信じた後の、救われているパウロであるのです。ローマ7章のパウロの経験は、救われる前の経験であると言っている注解者がありますが、それは真理を見損なっています。

では「罪はあなたがたを支配することがない」とは、どういう意味なのでしょうか。このことについて、考えてみましょう。

6章1節から10節までで、聖霊はキリストにある私たちの立場に関する真理を語ってくださいました。すなわち、アダムにあった古い私たちは、キリストが十字架の上で死なれた時、キリストとともに死んだのであり、キリストがよみがえられた時、私たちはキリストにある新しい人として、キリストとともによみがえらされ、キリストとともに、キリストの中に置かれて、天にある者とされています。しかし、これは私たちの実際的な、この地上における経験上の問題ではありません。これは立場上の事実であり、私たちは神の御前で、このような身分に与っています。

しかし、同時に私たちは、キリストを信じた時、神は私たちに聖霊を与え、聖霊によって私たちに新しいいのちを与えてくださいました。そして、聖霊は私たちに、私たちの立場にふさわしく歩ませようと日々私たちを導いておられます。聖霊は、私たちを汚れから聖別し、神の御栄光を現わす者に造り変える御父の御計画に従って働いておられ、終わりの日までには必ずそれを成就してくださいます。

聖霊はその御計画を律法という手段によらず、恵みという手段で成就しようとしておられます。ですから、私たちは、それが必ず実現されると信じることができます。

私たちは、このようにすばらしい神の御計画に従って救われているのであり、日々導かれているのです。それゆえに、私たちは「罪は私たちを支配することがありません。なぜなら、私たちは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです」と言うことができます。(ローマ6章14節の「あなたがた」を「私たち」に置き換えてあります)

このことは私たちが地上の生涯を終えて、天に行ってから地上の生涯を振り返ってみた時、そのみことばに心から同意し、「アーメン」と言うことができるでしょう。また、その時、私たちは、自分の弱さにもかかわらず、またその弱さのゆえの数々の失敗にもかかわらず、神が恵みをもって私たちを取り扱ってくださったゆえに、「私たちは神の恵みのゆえに、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者であった」と心から神を賛美し、神に栄光を帰するでしょう。

ですから、パウロが次のように叫んだのは、その必ず与えられる勝利を確信し、勝利の喜びを先取りして、信仰によってであったのです。

私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙8章37~39節)

ですから、すべてのクリスチャンは、神の恵みを信じて、その信仰によって、自分がキリストによって圧倒的な勝利者であると、すなわち神が恵みよって自分に圧倒的な勝利を与えてくださると信じて、パウロと同じように叫ぶことが許されているのです。

さて、それと同時に、私たちには神の恵みに応える責任が与えられていることを認めなければなりません。なぜならば、聖霊が私たちの生涯の中に神の御計画を成就されるとき、私たちを強引に引きずり回すことをせず、私たちに、神の御計画に心から同意し、聖霊の導きに服従することを求めておられるからです。聖霊は決して私たちを強制されません。私たちが、聖霊の導きに従う時、聖霊は私たちの中にあって御業を行なってくださいます。すなわち、聖霊は、不従順な者の、その不服従をまず砕き、服従の尊さ、すばらしさを教えてくださり、聖霊の導きに自分を委ねる者にならせてから神の御計画を実現させてくださるのです。

私たちの罪に対する勝利は、キリストが十字架の上で罪に対して死なれ、神に対してよみがえられたことによって、キリストの中に私たちのために確保されているのです。私たちの服従によって、あるいは自分自身を神にささげることによって罪に対する勝利が造り出されるのではありません。罪に対する勝利は、キリストの十字架の御業によって私たちに、恵みよって与えられたものであるのです。

しかし、私たちがキリストご自身が聖霊を通して、その勝利を私たちに経験させてくださると信じる場合のみ、聖霊はその勝利を私たちの歩みの中に、その信仰に応えて実現させてくださいます。

ローマ7章に記されているパウロの罪に対する戦いの悪戦苦闘は、律法を守る努力によって罪に対して勝利しようと努力していた時の敗北の経験であるのです。そのときパウロはまだ、キリストが十字架の御業によって罪に対する勝利を確保してくださったという事実を、そしてその勝利が、聖霊の導きによってキリストに頼るときに、私たちの日々の歩みの中に実現されるという真理を知らなかったのです。

このように、新約聖書を読む時、私たちの歩みに関する真理の中に、神の側からキリストの御業を通して見た真理と、現在の私たちがどのようにして神の恵みに信仰をもって応えるべきかについての、私たちの責任に関する教えの二面があります。これは決して混同させてはなりません。

この二面についての実例を次に挙げます。まず、神の側から見た真理を語っている聖句を挙げ、次に私たちの責任について語っている聖句を挙げます。

私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。(ローマ人への手紙14章7~9節)

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。(コリント人への手紙第一 6章20節)

あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。(ユダの手紙24、25節)


これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(コリント人への手紙第一 10章11、12節)

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。(ヨハネの福音書10章27~30節)


こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。(ヘブル人への手紙4章1節)

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ人への手紙8章37節)

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。(黙示録2章7節)

信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。(テモテへの手紙第一 6章12節)

このように、私たちの歩みに関する真理にも、神の側から見た面と私たちの側から見た、私たちの責任に関する真理があるということを正しく理解することは非常に大切であるのです。

ある者は、神の恵みを強調したいあまり、私たちの、神の恵みに応える責任を全く無視してしまい、非常に不健全なことを教え始め、聞いた者たちを躓かせ、自分自身をも躓かせてしまいました。その逆に、人間の側の責任について強調するあまり、神の恵みを制限してしまい、多くの人々を躓かせた者もいます。真理の一面だけの強調は、真理の価値を台無しにしてしまうのです。もう一度、ローマ6章の真理に戻りましょう。

キリストの十字架上の御死と復活によって、神の御前における私たちの立場は確保されました。そして、立場に関しては、私たちは罪からも完全に無関係になりました。すなわち「罪(単数)から義とされた」のです(ローマ人への手紙6章7節〈エマオ訳〉)。

聖霊は、このキリストが成就された御業に基づく私たちのための御父の御計画に従って、私たちを今導いておられ、私たちに、生涯を終えた時、天から自分の歩みを振り返えらせて「罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです」(ローマ5:21)という御言葉が真実であったと、また「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって(王のように)支配するのです」(ローマ5:17)というみことばの通り、私は神の恵みのゆえに王のように罪と死を支配することが許されたことを見て、心から神に感謝をささげさせてくださることでしょう。そして、神が私たちを律法の下に置かず、恵みによって取り扱ってくださったゆえに、罪は私たちの生涯を支配することがなかった(ローマ6:14参照)と、心からの感謝を神にささげることでしょう。

真の信仰者は、今の時点からこの真理に従って歩みます。そして、キリストの御業の力を今の時から喜び楽しみます。

ですから、全ての信者は、この神の御前における真理を信仰によって自分の歩みに適用し、私たちが、恵みの下に置かれていると言えども罪の中に歩み続けるべきではないことを認めるべきです。その次に、聖霊が私たちを今天におられるキリストと一つに結びつけておられるのですから、そしてキリストが聖霊を通して私たちに、立場に関する真理に従って罪から解放された聖なる歩みをさせてくださるのですから、私たちはキリストを信じる信仰によって歩むべきであるのです。私たちには、立場に関する真理を、私たちの信仰の歩みにおいて実現させる責任があるのです。この責任を絶対に無視してはなりません。私たちの責任は、自分自身を神に用いていただくために神の御手に委ねて、聖霊にキリストが成就された御業を自分の歩みの中に実現させる機会を提供することです。そうするならば、聖霊は私たちに勝利を与え、神の栄光を私たちの身によって現わしてくださいます。これが私たちの喜びであるのです。

どうか、私たちの全てが、キリストが十字架上で私たちのために成し遂げてくださった御業の尊さを深く知ると共に、私たちの真理に従って歩むべき責任を深く自覚し、聖霊に従って日々歩む者でありますように。