シュネムの女
列王記第二 4章8~37節
山岸登

ここに記されている女性は上品な、そして社交的で、隣人愛の精神に富んだ、その上、彼女は物惜しみせずに人の世話をする心の広い人でした。彼女には神を信じる信仰もありました。もしこのような姉妹が教会にいたら、教会にとってきっと大きな祝福となることでしょう。
彼女の夫はかなり裕福で、夫は彼女を信頼していたようです。ですから何でも彼女がすることに夫は反対しませんでした。彼女の家の脇の道をひとりの老人がしばしば通過して行きました。彼女はその老人が、神に仕えている人に違いないと判断しました。その判断は正しかったのです。その老人は、預言者エリシャでした。彼女はその老人がどのような働きをしているか知らずに、その老人の苦労に報いたいという思いを抱きました。それで、彼女は自分の家の屋上に小さな部屋を作り、その中に寝台と、机と椅子と燭台を備え、その老人にその部屋を休息場に使ってくれるように頼みました。エリシャはその厚意を喜んで受け入れました。そして彼はそこを通る度に彼女の家に立ち寄り、そこで一休みしました。
しばらくして、彼は彼女にお礼のためのお返しをしようと考え、彼女に何か欲しいものがあるかと尋ねたところ、彼女は「私は私の民の間で、幸せに暮らしております」と答えました。その意味は、私は満足しているから欲しい物は何一つないということでした。
彼女は自分の状態で満足していましたが、神は満足しておられませんでした。では神は彼女の何について満足しておられなかったのでしょうか。それを人間の結婚を例にして考えてみましょう。
ある男女が結婚したとします。妻となった女性は、自分が幸せであると言いました。その理由は、夫が彼女に欲しい物は何でも与えてくれるからで、立派な新築の家に住むことができ、家具や調度が十分に整っているからであると言いました。彼女を愛している夫は、その言葉を聞いても満足できませんでした。なぜならば、彼女が自分の身の回りの物によって満足しているのであって、夫と共にいることで満足していると言わなかったからです。
私たちが神が与えてくださった物を喜ぶことと、与え主なる神を喜ぶこととは、別であるのです。同様に、神が私たちに与えてくださった救いを喜ぶことと、救いを与えてくださった神を喜ぶこととも別であるのです。当然、私たちは神の賜物である救いを喜ぶべきです。それをいかに喜んでも喜びすぎることはありません。しかし、神は私たちが神御自身を喜ぶことを求めておられるのです。私たちが神御自身を喜ぶとは、たとい神様以外に何もなくても、神様との交わりをのみ喜びとすることを意味しています。
もう一つの実例は、放蕩息子の兄です。彼は父親といつも一緒にいましたが、父親との交わりよりも、子やぎ一匹を屠って料理を作り、それを友だちと一緒に食べることの方を求めていたのです。
彼女には子どもがいないことを知ったエリシャは「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになる」という預言を与えました。その預言のとおり、彼女に男の子が与えられました。彼女はその神の賜物をこの上なく喜んだはずです。恐らく彼女は、それまで、その男の子なしでも自分が幸せだと、どうして思うことができたのだろうかと疑問に感じたことでしょう。その男の子は彼女の心の全てを占めていたことでしょう。
しかし、神は彼女の愛して止まないその男の子を取り上げてしまわれました。その子が突然死んでしまったのです。その時、彼女は、その事件に神の意図を読み取りました。彼女は神が彼女に、神に祈り求めるように命じておられることを読み取りました。彼女はさっそくエリシャのところに駆けつけました。彼女は、神がエリシャを使って、その男の子を生き返らせることがおできになると信じました。神は彼女の信仰に応えて、その子を生き返らせてくださいました。
このことを通して、彼女は神が絶対主権者であることを、そして神は人を生かすことも殺すこともできることを、そして万物は神のものであり、神はそれを人に与えることも、人から取ることもおできになることを認めさせられたのです。その結果、彼女は、彼女の生活の全てのことにおいて、神が第一でなければならないことを学んだはずです。
このことから、私たちも学ばなければならないことが非常に多いはずです。
万物の造り主であられ、所有者であられる神は、全てのものを私たちにお与えになります。しかし、取り上げることもおできになります。すなわち、今私たちに与えられている全てのものは、神からの預かりものであるということです。私たちのからだも、いのちも、全てのものは神のものであるのです。それらを私たちは自分のものと思ってはならないのです。
たとえば財産です。神はある人々に大きな財産を預けられます。もしその人がそれを、自分が自由に使える所有物と考えるならば、その富がその人の禍の元になり得ます。しかし、それが神からの預かり物であり、所有者は神様であることを認めているならば、その富は禍とはなりません。その人は、その富の管理者として、その富をもって神の栄光を表すことが許されるからです。
最も重要なことは、私たちが自分自身を、自分の所有物と思ってはならないことです。私たちが生きるのも主のため、死ぬのも主のためです。主は私たちを生かすこともできますが、殺すこともおできになります。御自分のものにするために、御子の血をもって私たちを買い取られた主は、神の栄光を現すために人生を用いるように私たちに命じておられます。もし私たちが、自分の肉の欲に従って自分の人生を用いるならば、その人生は全く価値のないものになってしまいます。しかし、もし神の栄光のために神に用いていただくならば、非常に大きな祝福となります。
私たちの真実な喜び、祝福、幸せの源は神御自身であって、神が私たちに与えてくださったものではないのです。私たちがその事実に気が付き、生活そのものを楽しむのではなく、神との交わりを人生の第一の目的とするまで、神は決して満足されません。
このシュネムの女の「私は私の民の間で、幸せに暮らしております」は、「私は私の神との交わりの中で、幸せです」に変わったはずです。
神のみを、自分の喜び、力の源泉としている者は真実に幸いな者と言えます。どうか私たちの全てが、この真理に従って生きる者でありますように。