ディスペンセイション主義の必須条件
Charles. C. Ryrie
ディスペンセイション主義者と、そうでない者とを区別するのは何でしょうか。この体系の必須条件(絶対的に必要な部分)は何でしょうか。この質問に答えるためには、後に考察する議論を先取りしなければならないのですが、ここで答えておくことが適切だと思います。
理論的には、この必須条件は、神がこの世界の出来事を支配するにあたって、互いに区別される異なった摂理を持っておられるという事実を認めるかどうかにかかっています。契約神学者たちは、恵みの契約の遂行の中に様々なディスペンセイションがあると言います(彼らもディスペンセイションという言葉を使います)。例えばチャールズ・ホッジは、アダムの堕罪後に四つのディスペンセイションがあると言います。それは、アダムからアブラハム、アブラハムからモーセ、モーセからキリスト、キリストから終末です。ベルコフは先に見たように、旧約と新約という、ただ二つのディスペンセイションしか記していませんが、旧約の中に四つの期間があることを認めており、それら全てが恵みの契約の多様性であるとしています。言い換えるなら、いくつかのディスペンセイションがあることを信じ、それらの間に啓示の漸進性を認めても、ディスペンセイション主義者でないこともあり得るということです。
ディスペンセイション主義の要点は、ディスペンセイションの数でしょうか。いいえ、それはこの体系の主要な問題ではありません。そのことについては次の章で議論します。スコフィールドは七つのディスペンセイションがあると教え、ホッジは四つを教えたことで、前者がディスペンセイション主義者となり、後者がそうでなくなるのではありません。
では、千年期前再臨主義という問題が決定要因なのでしょうか。やはり答えは「いいえ」となります。なぜなら、千年期前再臨主義者であっても、明らかにディスペンセイション主義者でない人々がいるからです。千年期前再臨主義に立つ契約神学者たちは、恵みの契約と救済論中心の神の目的という考えを固持しています。彼らが千年王国という考えを持っていても、その根拠を旧約聖書の預言の中に見いだすことはまれです。彼らの考える御国は、ディスペンセイション主義者たちの教える御国とは明らかに異なります。それは彼らが、御国に関する旧約聖書の約束を軽視した結果、御国の持つユダヤ的特質の多くを見失っているからです。千年期前再臨主義者の契約神学者たちの多くは、患難期後再臨主義者でもありますが、それは非ディスペンセイション主義的アプローチの必然的付随と言えます。いずれにせよ、千年期前再臨主義者が必ずしもディスペンセイション主義者というわけではありません(しかし、その逆は真です。ディスペンセイション主義者は必ず千年期前再臨主義者です)。
では、ディスペンセイション主義の必須条件は何でしょうか。答えは三つです。
1.ディスペンセイション主義者はイスラエルと教会の区別を保ちます。このことは、ディスペンセイション主義に友好的な者たちと、敵対する者たちとから、それぞれ異なった言い方で表現されています。フラーはこう述べています。「ディスペンセイション主義の基本的前提は、神には二つの目的があり、それは永遠に区別される二つの民の構成において表明される。」ゲバライン(A. C. Gaebelein)は「ユダヤ人と異邦人と神の教会」という異なる表現で述べています。チェイファーは以下のように要約しています。
ディスペンセイション主義者の信条は、諸時代を通じて、神が異なる二つの目的を遂行しておられるということである。一つは地上に関することであって、地上の民と地上の目的を含んでいる。それがすなわちユダヤ教である。もう一つは天に関することであって、天の民と天の目的を含んでいる。それがすなわちキリスト信仰である。……この見解に対して、部分的なディスペンセイション主義者は、明白な区別をかろうじて認めはするが、神がただ一つの事柄、すなわち善と悪との一般的な分離のみを行っておられるという仮定に基づいて自らの解釈を施すのである。この限定的学説の生み出す様々な混乱にもかかわらず、彼らは地上の民が天の民と合併すると主張し、地上の計画に霊的な解釈を施すか、あるいは、これを完全に無視するのである。
これは恐らく、人がディスペンセイション主義者であるかどうかを明らかにする、最も基本的な神学的テストであり、最も実際的かつ決定的だと断言できます。イスラエルと教会との区別を一貫して行わない者は、ディスペンセイション主義的区分をしているとは言えず、これを一貫して行う者がディスペンセイション主義者なのです。
イスラエルに対する神の目的と教会に対する神の目的は、聖書の中で最も注目されている事柄ですが、神はその他のグループに対する目的をも持っておられます。神は御使いたちに対する目的を持っておられ、それはイスラエルや教会に対する目的とは、決して混同されるべきではありません(Ⅱペテロ2:4、黙示4:11)。神はまた、神を拒む者たちに対する計画を持っておられ、それもまた他の目的と区別されなければなりません(黙示16:4)。神は諸国民に対する計画をも持っておられ、それは新しいエルサレムにおいても継続します(黙示22:2)。これら諸国民はキリストの花嫁と区別されています。このように、神は二つ以上の目的を持っておられますが、神はイスラエルに対する目的と教会に対する目的を、他のグループについてよりも多く啓示しておられます。
プログレッシブ・ディスペンセイション主義者は、この概念が、異邦人、イスラエル、ユダヤ人、という概念によって伝達されるものとは同種類でないという言い方をして、これらの区別をあいまいにしています。その意味するところは不明瞭です(第9章での詳しい議論を参照してください)。いずれにせよ、イスラエルと教会との古典的な区別が、これまでよりも不明瞭な含みを持っていることは間違いありません。
2.イスラエルと教会という区別は、一般に字義的解釈と呼ばれる釈義体系から生まれます。それゆえ、ディスペンセイション主義の必須条件の第二番目は、歴史的・文法的釈義の問題です。字義的という言葉よりも、通常の、平易な、という言葉の方が良いように思われますが、何と呼ぶにせよ、それは非ディスペンセイション主義的解釈がしばしば行う、比喩的、寓話的解釈をしません。比喩的解釈がどの程度施されるにせよ、それが解釈体系の中に存在しているなら、それは非ディスペンセイション主義的アプローチであることを示しています。
一貫した字義的で平易な解釈こそ、聖書に対するディスペンセイション主義的アプローチを示しています。ですから、ディスペンセイション主義的解釈の原動力とも言うべき、この一貫性こそが、非ディスペンセイション主義者たちをいら立たせ、彼らの嘲笑の対象ともなるようです。確かに、字義的・歴史的・文法的釈義は、ディスペンセイション主義者だけの専有物でも習慣でもありませんが、これを聖書解釈の全ての分野に一貫して適応することこそ、ディスペンセイション主義者の独壇場なのです。それは、字義的解釈の基本的枠組みの中での、型・たとえ・黙示・様々なジャンルといったものを妨害や排除するものではありません。
3.ディスペンセイション主義の必須条件の第三番目は、やや専門的な問題なので、後ほど詳細に議論します(第5章を参照)。それは、この世界における神の根本的な目的に関することです。契約神学者は実際的に、この目的を神の救いであると信じています(もちろん、契約神学者たちも彼らの神学の中で、神の栄光を強調しています)。しかしディスペンセイション主義者は、神がより広い目的を持っておられると言います。それは神の栄光です。プログレッシブ派はキリスト論を中心にし、ダビデ契約の強調を基礎とし、キリストがダビデ的支配者として、すでに天において統治しているとします。
通常のディスペンセイション主義者にとって、救済論すなわち神の救いの計画は、神の唯一の計画ではなく、神ご自身の栄光を現すという計画全体の中で、神がお用いになる手段の一つです。聖書は、まるで救いが主要テーマであるかのような人間中心のものではなく、神中心であって、それゆえ神の栄光が中心です。聖書自体が明確に教えているように、確かに救いは重要であってすばらしいものですが、それ自体が目的なのではなく、神の栄光を目的とする手段の一つに過ぎません(エペソ1:6, 12, 14)。ダラス神学校のチェイファーの後継者であるワルブード(John F. Walvoord)は次のように表現しています。「より大きな神の目的は、神ご自身の栄光を現すことである。この目的のために、各ディスペンセイション、諸時代に連続する神の計画の啓示のそれぞれ、選ばれた者たちと選ばれていない者たちに対する神の取り扱い……これらが結合して神の栄光を現すのである。」
ワルブードは他の箇所でこうも言っています。
神によって造られたこの世界に起こるあらゆる出来事は、神の栄光を現すことを目的とされている。契約神学者たちの過ちは、神の目的の多くの面を、恵みの契約の成就というただ一つの目的に結合していることである。論理的に言って、これは還元的過ちと言える。すなわち、全体の一側面を決定的要素として用いているのである。
このように、ディスペンセイション主義の要点は、イスラエルと教会の区別にあります。それは、ディスペンセイション主義者の一貫した、通常の、平易な、歴史的・文法的釈義の結果です。それはまた、人類に対する神の取り扱いの基本的目的を反映しています。すなわち、それは神のその他の目的と同様、救いを通して、神ご自身の栄光を現すことなのです。