法的赦しと親の赦し
――その違い――
William Macdonald
聖書に二つの異なる赦しについて書かれています。聖書を注意深く学ぼうとするなら、その違いを区別しなければなりません。その二つとは法的赦しと親の赦しです(これらは聖書にでてくる用語ではありません) 。
やさしく説明すると、法的赦しというのは裁判官が下す赦しであり、親の赦しというのはお父さんが何かを赦してくれることです。前者は法廷で、後者は家庭で使われる用語です。
まず法廷の方から始めましょう。神様は裁判官であり、罪深い人間は裁判にかけられた人です。人間は罪を犯したので有罪であり、その刑罰は永遠の死です。しかし主イエスが登場されこう宣告されます。「人間の罪に相当する代価は私が支払います。私は彼のために身代わりとなって死にます。」これこそ、主がカルバリの十字架の上で成してくださったことなのです。さて裁判官は、罪深い人間にこう宣告します。「もしあなたが私の息子をあなたの主また救い主として受け入れるなら、私はあなたを赦しましょう。」人が救い主を信じるとき、すぐさま、自分の罪はみな赦されたとの法的赦しを受けます。その人はもはや決して地獄において罪の刑罰を支払うことはなくなりました。なぜならキリストがそれらすべてを支払ってくださったからです。赦されたこの罪人は、今や新しい関係に入ります。神はもはや彼の裁判官ではなく、彼の父となりました。
さて次に親の赦しを説明するために家庭に移りましょう。神は父であられ、信者はその子です。軽率にも子供がある罪を犯してしまいました。では何が起こるでしょう。神はこの子供に、罪に対する死を宣告されるでしょうか。もちろんそのようなことはなさいません。なぜなら神はもはや裁判官ではなく父であるからです。では何が起こるのでしょう。そうです。家族の交わりが壊されるのです。楽しい家族の雰囲気がなくなってしまいます。この子供は自分の救いを失いはしませんが、救われていることの喜びを失います。我が子を交わりに回復するためにと意図された父の懲らしめを受けなければなりません。そして子供が自分の罪を告白するときに、親の赦しを受けるのです。
法的赦しは、回心の時ただ一度だけなされるものであり、親の赦しは信者が罪を告白しそれを捨てるときに何度もなされます。このことについて主イエスは、ヨハネによる福音書13章8節から10節で教えておられます。私たちは、罪の罰から救われるための新生の水浴はただ一度しか必要がないのですが、親の赦しを得るために洗っていただくことはクリスチャン生活の中で何度も必要なのです。
これら二つの赦しの違いを図で示すと次のようになります。
法的赦し | 親の赦し | |
その人の立場 | 罪人(ローマ3:23) | 子供(1ヨハネ3:2) |
神との関係 | 裁判官(詩篇96:13) | 父(ガラテヤ4:6) |
罪の結果 | 永遠の死(ローマ6:23) | 交わりの破壊(1ヨハネ1:6) |
キリストの役割 | 救い主(1テモテ1:15) | 大祭司・助け主(ヘブル4-14-16、1ヨハネ2:1) |
その人に必要なもの | 救い(使徒16:30) | 救いの喜び(詩篇51:12) |
赦しの手段 | 信仰(使徒16:31) | 告白(1ヨハネ1:9) |
赦しの種類 | 法的(ローマ8:1) | 親が子に対するもの(ルカ15:21-22) |
無視した結果 | 地獄(ヨハネ5:24) | 懲らしめ(1コリント 11:31, 32) キリストの裁きの座において報いを失う (1コリント 3:15) |
肯定的結果 | 新たな関係(ヨハネ1:12) | 交わりの更新(詩篇32:5) |
頻度 | 一度:新生の水浴(ヨハネ13:10) | 何度も:多くの洗い(ヨハネ13:8) |
以下に挙げたみことばは、キリストの御業のゆえに罪人にもたらされるただ一度の赦しについて語っている聖句です。
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1章7節)
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ4章32節)
以下に挙げたみことばは、親の赦しを扱っている聖句です。
もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお許しになりません。(マタイ6章14-15節)
また立って祈っているとき、だれかに対して恨み言があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。(マルコ11章25節)
上に挙げたみことばのうち二つが神を父と呼んでいることに注目してください。なぜならここで扱われているのは父の赦しであるからです。またここで、私たちの罪が赦されるのが、私たちが人を赦すかどうかにかかっていることにも注目してください。法的赦しにおいてはこれとは異なります。他人を赦すかどうかは、救いの条件ではありません。しかし親子の間の赦しにおいては、これは真実なことです。もし私たちが人を赦さないなら、私たちの父も私たちを赦してくださいません。
マタイ18章23節から25節で主イエスは、王に一万タラントの借りを赦してもらったしもべの話をされました。しかしこのしもべは、仲間のしもべに貸した100デナリを赦免しようとしませんでした。王は怒ってこの男を、借金を返すまで牢に投げ入れました。イエス様は次のようにおっしゃってこのたとえを終えられました。
あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。
ここで扱われているのもまた父の赦しについてです。人を赦そうとしない精神は罪であり、神は私たちがその罪を告白し捨てるまで、私たちの親として赦しを与えることをなさらないのです。
聖書を学ぶわくわくするような楽しさの一つは、これら基本的な区別を見分け、そしてそれらを毎日の学びに適応することです。これからあなたが聖書の中に赦しという主題を見いだすときには、こう言うことができます。「この聖句は法的赦しについて語っているのだろうか。そうでないならこれは、父がご自分の子を赦すことについて語っているに違いない。」