逃げ出した青年

前田大度 

ある青年が、素肌に亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。(マルコの福音書 14章51~52節)

主イエスがゲッセマネの園で捕らえられたときに、裸で逃げ出した青年の話は、ただマルコだけが書き記しています。ですから、この青年こそ、ほかならぬ、マルコの福音書の著者であるマルコ自身であるという説があります。そうであるかどうかは別にしても、主イエスを見捨てて、しかも裸で逃げていったのは、実に恥ずかしく、また、情けない姿であると言えます。

マルコは裕福な家の出であり、彼の母も信者でした。家には召使いがいて、そこは信者たちがしばしば集まる場所でした。

ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大勢の人が集まって、祈っていた。(使徒の働き 12章12節)

彼はペテロと行動をともにし、初代のクリスチャンたちの残した記録によれば、ペテロの通訳者であったと言われています。

マルコは、パウロとともに第一回目の伝道旅行に助手として同行しました。使徒の働き13章5節に「彼らはヨハネを助手として連れていった」と記されているのは、ヨハネ・マルコのことです。けれどもマルコはこの時、伝道旅行の途中で引き返してしまっています。

パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのベルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れてエルサレムに帰った。(使徒の働き 13章13節)

このために、第二回目の伝道旅行の出発に際して、パウロはマルコを連れて行くことに反対し、このことでバルナバと衝突しました。

バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネも一緒に連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者は一緒に連れて行かない方がよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて船でキプロスに渡って行った。パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。(使徒の働き 15章37~40節)

マルコが第一回目の伝道旅行中、途中で帰ってしまったのは、伝道よりも仕事を優先したためであったのです。マルコの福音書に出てくる、裸で逃げ出した青年がマルコ自身であったとするなら、マルコは二度も敵前逃亡をしたということになります。ここぞという時に、信仰に立つことをせずに退き、逃げてしまっているのです。伝道者パウロが、重要で困難な伝道旅行に、このような人物を連れていくことはできないと判断したのは当然と言えます。そのような判断を下されるに十分な理由が、マルコにはあったのです。

では、このような弱気な人間は、主の有用な働き人に変えていただくことはできないのでしょうか。大伝道者パウロから失格者との烙印を押された人物は、もう用いられないのでしょうか。もちろんそのままではいけませんし、そのままでは用いられません。けれども、自分の失敗を謙虚に認め、パウロを恨むのではなく、自分の弱さを正直に認め、自分自身をさばいて悔い改め、主に助けを願い求めるなら、主は必ず助け導いてくださるのです。

マルコは主のお取り扱いを受けました。主はマルコを成長させてくださいました。パウロの証言を聞きましょう。

マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。(テモテへの手紙第二 4章11節)

18年前、「彼を連れて行くことはできない」と判断された同じ人物が、そう判断した同じパウロによって、今は「彼を連れてきてください」と言われているのです。マルコは主の働きに、それも、これまで以上に困難な働きに、役に立つ者と変えられていたのです。神の恵みはなんと豊かに注がれたことでしょう。マルコに対するパウロの評価は、完全に変わっていました。そして、さらに、このマルコが、主の御生涯を記した新約聖書の四つの福音書の一つを書き記すために、選ばれ、用いられたのです。実に驚くべき神の恵みです!

さて、私たちはマルコの生涯から学ばなければならないことがたくさんあります。私たちもまた、残念ながら、多くの失敗を犯す者たちです。不信仰ゆえに、恐れをなして、伝道や奉仕の場を退いたり、愚かな過ちを犯した自分を見て落胆することもあります。兄弟姉妹たちの信頼を失い、神がお立てになったしもべたちから、奉仕にふさわしくないと判断されることが、ひょっとしてあるかも知れません。けれども、たとえ私たちがどの様に愚かな者であっても、悔い改めて、主に助けを求めるなら、主は憐れんでくださいます。そして主の働きのために役に立つ者としてくださるのです。悔い改めるためには、自分の失敗や愚かさをしっかりと見なければなりませんが、前進するためには自分を一切見ることなく、ただ主だけを頼りにしなければなりません。どうか、主の憐れみをいただいて、主に益々用いていただくことを求めましょう。そして、主の務めのために役に立つ者としていただきましょう。