真理と体験
山岸登

私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ人への手紙 3章10、11節)
使徒パウロは、何としてでも「死者の中からの復活」すなわちキリストの空中再臨に至るまで、ある一つのことを体験しつつ生きたいと願ったのです。それはキリストの復活の力が実際に自分のうちに働いていることを味わい知る体験であったのです。そして、そのキリストのいのちの力によって、キリストの苦しみを体験し、さらにそれによってキリストが死に至るまで、しかも十字架上の死に至るまで御父に服従され、ご自身をささげられたように、パウロ自身も神へ自分自身をささげることを切に願ったのです。
私たちは真理をただ単なる知識として頭の中にしまっておくだけでなく、実際的に真理に従って歩み、真理の力を体験することを求めるべきであるのです。実際的に真理の力を味わってこそ、その真理を理解したと言えるのです。
例えば、クリスチャンは神の子どもであり、しかも御父に愛されています。そして御父に祈る特権にあずかっています。私たちは実際に祈り、祈りが答えられることを体験し、その特権がいかに価値あるものであるかを味わい知るべきです。
しかし、実際に神の助けを必要とする場面に自分自身を置かないと祈ることはできません。冷蔵庫の中に食糧がいっぱい詰まっているのに、今日の糧をお与えくださいと祈ることはできません。
それと同様に、実際に自分がキリストの復活の力を必要とする状況の中にいないならば、私たちはキリストの復活の力を求めませんし、またキリストの力による助けを味わうこともできません。
私たちがキリストの復活の力を必要とする場面とは、私たちがキリストの苦しみにあずかるときです。すなわち私たちは、人々のたましいの救いのために様々の苦しみ、犠牲を払うこと、迫害を受けること、恥辱を受けることがあります。モンゴルやその他の国で福音伝道に従事している宣教師たちの苦労は「キリストの苦難」の一つです。また日本でも福音伝道のためには苦労があります。教会新聞を一軒一軒配ることも「キリストの苦難」の一つです。
それらの苦しみを克服するために私たちはキリストの復活の力を必要としています。実際に、キリストのいのちの力を聖霊を通してキリストから直接いただかなければ、私たちはすぐに疲れ果ててしまうのです。
しかし、そのような場面こそ私たちが、「キリストとその復活の力」が実際に私たちの内に働き、私たちを力付け、私たちを助けてくださることを実際的に学ぶ最良の教室であるのです。
私自身の経験を語りましょう。その時私は20歳になる1か月前でした。ある県の山奥にある、谷間の細長い村に入り込み、下流から上流に向かって一軒一軒訪ね、福音を語っていました。全ての人に一度は伝えようと、田んぼの中まで裸足で入って行き、何とかして福音を伝えようとしていました。しかし、聞いてくれる人はほとんどいませんでした。何とか彼らの興味を引こうと、色々おもしろい話しを工夫したのですが、そのような努力がかえって私自身を疲れさせ、所持金の乏しさもあって、空腹感が私を精神的にも疲れさせ、そのような努力に対する見返りのなさからの失望が私の心を、疲労のどん底に突き落としていました。
自分自身の無力さを思い知らされ、自分に対する失望のゆえに、自分の献身の生涯についての不安、自分の歩みの前途への不安に対して勝利する力を失っていました。それどころか勝利しなければならない理由を見失っていました。
農家の人々が昼寝する時間帯は、真夏の屋外ではブヨと蚊に襲われるので、昼寝もできず、河原に下りて行き、木陰に適当な大きさの石を見付けて、その上に座り、聖書を開いたのです。
エペソ人への手紙を第1章から読み始めました。すぐに目に入った聖句は、「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(1:3)でした。その聖句が語っていることと自分の状態があまりにもかけ離れているので、ただ空しく読むだけでした。
しかし、第2章になり、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」(4~6節)を読んだとき、コリント人へ手紙第二、4章18節の「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」を思い出し、河原の石の上に座っている自分が見える自分であり、天の所に「キリストにあって」座っている自分が見えない自分なのであることに気が付かされたのです。
もしキリストが死なれ、その死後三日目に復活されたことが事実であるならば、今キリストは天におられるはずであり、天にある御座に着座しておられるのであり、聖書が語っている通り私自身もキリストにあって天の所に座らせられていることも事実であるはずです。そして肉眼では見えなくても、復活されたキリストが天におられることを信じているならば、自分がキリストの内に、キリストとともに生きていることも信じなければならないはずです。私はこのことを信ずべきであることを知ったのです。それで、聖書が語っているままを、身辺の状況の如何にかかわらず、信じ受け入れることを学ばされたのです。それで、それを受け入れる決心をしました。
その時、それまで私の心を支配していた将来への不安、自分に対する期待から生じていた不安と失望、自分はどのようにすべきかが分からないことからの焦りが霧散し、キリストへの信頼、神の恵みへの希望と喜び、神のみこころへの信頼が心を満たし始めたのです。
その時、自分の力、才能、計画への期待の愚かさと空しさを知らされ、全面的に神に自分を委ねることを教えられたのです。正確に言えば、その時から教え始められたのです。
この時、聖霊によって教えられた真理は、新約聖書を理解するための、全ての人にとって不可欠の鍵となる真理でした。それゆえ、その時から聖書が一層輝きを増して、力強く迫ってくるようになったのです。さらに、キリストの復活の力を実際的に味わい、困難に勝利することの喜びが増し加わり、主に仕えることが喜びとなり、大きな困難が目前に迫ってきても、キリストが力を与えてくださるので必ずそれを乗り越えることが許されるという希望を持つことができるようにならせられたのです。
私たちの現実の歩みに、実際的助けを与えることがない真理は存在しませんし、私たちが自分の現実問題に適用しなくても良い真理も存在しません。私たちは、全ての真理を知的に知るだけではなく、真理に従って歩むこと、すなわち真理の現実的力を体験し、真理に従って生きることの喜びを味わい知るべきであるのです。
それは特にみことばを語るために立てられている牧師、教師には絶対的に必要なことであり、もしそうしないならば真理を冒涜するばかりか、信徒たちに身をもって真理の力を否定することになるからです。
「富んでおられたのに」私たちのために「貧しくなられ(た)」(Ⅱコリ8:9)主の弟子であると公言している者が、贅沢に暮らしていることほど不似合いで、嫌悪感を起こさせるものは他にありません。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ(た)」(ピリ2:6, 7)キリストに従う者は、謙遜であるべきであり、自己を宣伝し、自分の誉れを求めるようなことは絶対にすべきではないのです。「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われ(た)」(ピリ2:8)キリストのしもべは、自己否定と自己犠牲の心をもって主に真実に仕えるべきであるのです。そして、もし私たちが真理に従って生き歩むことを願うならば聖霊は必ず私たちを助けてくださるのです。
聖霊はキリストの代理として私たちの内に宿っておられます。聖霊の働きの目的は、私たちに真理を知っている者にふさわしく歩む力を、私たちの信仰に応じて、与えることであるのです。キリストは聖霊を通して、キリストを信頼する者にキリストに従う力を与えてくださいます。そして私たちの責任は、その真理の力を自分自身で味わうばかりでなく、その力を他の人々に証しすることであるのです。それによって、キリストの真理の力が証明され、キリストの御名に栄光が帰され、教会を通して神が誉め称えられるのです。どうかこのようにして私たちを通して神の栄光が現わされますように。