彼らは救われているのか?

山岸登 

彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。(テトスへの手紙第一 1章16節)

彼らは不敬虔な者たちで私たちの神の恵みを放縦に置き変えようとしており、私たちの唯一の主であり神でいますイエス・キリストを否定しています。(ユダの手紙 4節〈エマオ出版訳〉)

この聖句の「否定する」という語は、自分とその人との関係を否定するという意味です。すなわちそれは、主イエスが自分の主であり、自分が主イエスに服従していることを否定することです。

さて、私たちもこれらの聖句が意味しているようなクリスチャン(?)を見かけます。彼らは自分がクリスチャンであると自称しており、キリストを信じていると告白しています。また、主イエスの処女降誕と復活を信じているかと問うと、信じていると言います。「あなたは、主イエスが十字架にかかって死なれたのがあなたのためであったと信じていますか」と問うと、彼らは信じていると答えます。しかし、彼らには主イエスに従う意志が全くないのです。彼らの生活の原理は自我の追求です。それは、ある人にとっては情欲、肉欲などの不道徳と呼ばれるものの追求でしょうが、他の人にとっては、それは商売、事業、芸術、学問などであったりします。彼らの共通点は、主イエスに従う意志が全く欠如していることであり、世からの分離が全くないことです。

彼らの中には、教会の牧師もいます。私たちにとって非常に大きな問題は、彼らの中のある者たちが、キリストへの服従の必要を否定しながら、人々に、キリストを信じるように宣べ伝えていることです。そのような者たちの意味している信仰には「神への服従」という意味が全く欠如しています。ですから、彼らはキリストを信じるとは告白していても、キリストに従うことが全くないのです。

仏教の因習の大変強い地方には、熱心な仏教徒が大勢見かけられます。彼らは信心に熱心であり、仏教の教理をよく知っています。しかし、彼らの関心事は金であり、あるいは情欲であって、普通の人間と全く変わりません。そのような人々の仏教的言語をキリスト教的言語に置き換えると、彼らはある種のクリスチャンになり、またある種の牧師にもなり得るのです。

そこで、真の信者と偽の信者との境界線は、キリストを信じていると告白しているかいないかではなく、新たな誕生を経験して新しいいのちを持っているか、それとも新たな誕生を経験したことがなく、従って新たないのちを持っていないかであるのです。新しいいのちを持っていることの証拠は、神への従順です。新たな誕生を経験し、神からの新しいいのちを持っている者は、神のみこころに従うことを喜びとし、神の愛に応えて神を愛します。それが真実な信仰のしるしである従順です。聖書はこのことについて次のように語っています。

このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。(ローマ人への手紙 1章5節)

私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。(ローマ人への手紙 15章18節)

あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。(ローマ人への手紙 16章19節)

私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現されて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。(ローマ人への手紙 16章25節~27節)

すなわち、父なる神の予定に従い、御霊による聖別によって従順に至らせられるようにと、そしてイエス・キリストの血の注ぎを受けるようにと選ばれた人々へ。あなたがたに恵みと平安が増し加えられますように。(ペテロの手紙第一 1章2節〈エマオ出版訳〉)

従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。(ペテロの手紙第一 1章14、15節)

救われていない者は新しいいのちを持っていません。ですから神に従うことができません。また、神に従うことを忌み嫌います。それで、神への不従順が救われていない者の特徴です。ですから聖書は不信者のことを「不従順の子ら」と呼んでいます。

神の怒りは不従順の子らに下るのです。(エペソ人への手紙 5章6節)

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ人への手紙 2章1~3節)

ではなぜキリストを信じると告白しながら、実際的にはキリストに従いたくない、そして肉に従って歩み続けるような者、すなわち偽信仰告白者が起きるのでしょうか。

私たちも、キリストを心の中に受け入れて救われる以前、肉に従って生きていました。肉の特徴は「神への反抗」です。聖書は肉について次のように語っています。

というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。(ローマ人への手紙 8章7節)

このように不従順で反抗的であった私たちの心に聖霊なる神が語りかけ、キリストの福音によって罪を示してくださいました。そして神への反抗の結果が永遠の地獄であることを教えてくださいました。その時、聖霊は私たちに、主イエスの十字架上の御死による罪の赦しを教えてくださいました。このようにして私たちは主イエスを自分の救い主として信じ受け入れることができたのです。そしてその結果として新しいいのちが与えられ、新しい歩みが始められたのです。

このようにして与えられた信仰には、自分の自我を自分の神としてそれに従ってきた人生を捨てて、主イエス・キリストを神として受け入れ、キリストに仕える人生に入るために方向転換するという意味が含まれていました。

ところが、ある人々は、自分の欲望追求の歩みを捨てたくないために、肉に従う歩みを続ける口実として、信仰の告白から神への従順を切り離してしまったのです。サタンは巧みにそのような人々を騙し、その人々の良心を麻痺させ、神の恵みを理由にして罪に従い続けることに良心の咎めを感じなくさせてしまったのです。そのような人々にサタンは、「お前は神に従う必要はない。今までの歩みを止める必要はない。キリストをただ信じるだけで良いのだ」とささやき、神への従順のない形式的な信仰をその心に植え付けてしまったのです。このようにして、キリストを信じると告白はしていても、全く真の信者としての歩みができない偽信者が生じるのです。そのような信仰告白者の中に新しいいのちはありません。

ですから、そのような偽信者が、正しい信仰の道を歩み続けることはできません。やがて信仰の破船に遭い、脱落していきます。彼らは神に対して反抗的になり、真理を否定して同類を集めて異端のグループを作ります。このような偽信者は、現代には特に多いのですが、教会時代のごく初期から存在していたのです。それゆえ聖書はそのような者たちに次のように語って、警告を与えています。

主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とかいう、ことわざどおりです。(ペテロの手紙第二 2章20~22節)

一度光を受け、天的な賜物を味わい知り、聖霊の働きに関与する者となり、そして(語られた)神の良いみことばと、来るべき国の力ある業とを味わった上で、道から外れてしまった者は、自分で神の御子を(今)十字架につけており、公に侮辱を与えているので、再び悔い改めに立ち返らせることは不可能です。土地が、その上にしばしば降る雨を飲み込み、そして、実に、それを耕した農夫に良き作物を生じているなら、神から祝福を受けます。しかし、いばらやあざみを生えさせているなら、捨てられ、さばきは近く、遂には焼却処分を受けます。(ヘブル人への手紙 6章4~8節〈エマオ出版訳〉)

では、みことばを宣べ伝える者たちは、このような救いに至らない偽りの信仰告白者を作らないためにどのような注意が必要でしょうか。それはまず、みことばを教える者が、神が与えてくださる信仰が必ず神への従順に至らせることを確信していることです。そして、次のみことばのとおり、新しい信者に、神への従順をもって自分が救われていることを熱心に証するように、勧め続けることです。

ですから兄弟たちよ。あなたがたは、自分の召しと選びとを(他の人々に)証明することにますます熱心な者でありなさい。これらのことを行っていれば、あなたがたは決してつまずいて倒れることがありません。(ペテロの手紙第二 1章10節〈エマオ出版訳〉)

さらに必要なことは、たとい福音の正しい知識を持っていてキリストを信じると告白していても、真実な信仰の結果である神への従順を否定するような者を、次の聖句に従って救われている者とは決して認めないことです。

全てこの方の中に留まっている者は罪を犯し続けません。全て罪を犯し続けている者は、この方を見たことは一度もないし、その方を知ったことも全くないのです。小さな子どもたちよ。あなたがたは、だれにも騙されてはいけません。あの方が正しいように、正しいことを行っている者が正しいのです。その罪〈無法〉を行い続けている者は悪魔に所属しています。なぜならば悪魔は最初から罪を犯し続けているからです。神の御子が(この世に)現れてくださったのは、この悪魔の働きを破壊するためでした。全て神から生まれた者〈神の子どもたち〉は、罪を行い続けません。なぜならばその人の中に彼〈神〉の種が宿っているからです。そして、その人は、神から生まれたので罪を行い続けることができないのです。(ヨハネの手紙第一 3章6~9節〈エマオ出版訳〉)

また、このような「救われているとは認められ得ない信仰告白者」に対して私たちはどのように語るべきでしょうか。私たちは、そのような人々に、たとい彼ら自身が救われていると思っていても、彼らの信仰が真実な信仰ではないゆえに、彼らは救われていないと断定することです。彼らに「キリストをただ信じなさい」と言うことは無意味です。なぜならば、彼らの信仰についての定義が誤っているからです。彼らの考えている信仰には神への従順が欠如しています。彼らは知識は持っています。ですから、私たちは、彼らにその知識に従って、それにふさわしく歩み始める決断を迫るべきです。彼らが謙遜にその決断を行ったとき、彼らの信仰が始めて真実なものとなり、彼らは救いに与ることができるからです。