あなたは自分の肉を十字架に付けたか?
山岸登

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。(ガラテヤ人への手紙5章24節)
この聖句は、私たちが自分の肉をさまざまの情欲と欲望と共に十字架に付けてしまったと語っています。ところが私たちは、少なくとも私は、自分の肉を十字架に付けた経験はないし、また私たちの肉は、少しでも隙を与えると、その悪さを発揮し、私たちをその力の支配下に置こうと虎視眈々とチャンスを狙っています。私たちの肉は私たちの中で生きているのです。
では、この聖句は間違いなのでしょうか。聖句に間違いがあるはずがありません。では、訳が間違っているのでは?そうでもありません。では、クリスチャンの中の特別な人の、霊的体験を語っているのでは?そうではありません。使徒パウロは、特殊な霊的体験というものを、ことのほか嫌忌しました。「キリスト・イエスにつく者」とは、全クリスチャンを意味していることは確実です。
では、この聖句は何を意味しているのでしょうか。この聖句の原語の用法は、格言的用法と言い、「このような覚悟をもって歩みなさい」という意味です
肉というものは、私たちが絶対に甘く見てはならないものであり、私たちにとって憎まなければならないものであるのです。肉に対して寛容は禁物です。肉は私たちを破滅に導きます。
サムソンを堕落させ、破滅に落とし込んだのは悪女デリラでした。デリラはサムソンの肉を喜ばせ、快楽を与え、彼に一時的でも幸福感を与えました。しかし、彼女は決してサムソンを愛してはいなかったのです。しかし、デリラはサムソンに愛を要求し、彼の心を巧みに奪ってしまいました。そして、サムソンを破滅に落とし込んだのです。彼女はのろわれており、サムソンが愛すべき者ではなかったんです。
サムソンはデリラに騙されていたのです。これが肉の本当の姿です。肉は、私たちを騙します。幸せを与えるように見せ掛けて、私たちを堕落させようとしています。
神は私たちの肉を、のろわれたもの、さばくべきもの、憎むべきものと見ておられます。それでは、私たちも自分の肉を同じように見るべきであり、同じように取り扱うべきであるのです。
肉にふさわしい場所は、のろいとさばきの場である十字架の上です。そして聖霊は、私たちに、私たち自身が自分の手で、自分の肉を、そのさまざまの情欲と欲望とともに十字架に付けてしまったという覚悟、自覚をもって、日々、歩みなさいと命じておられるのです。私たちを真実な喜びと勝利に導いてくださるのは聖霊です。

