快楽主義に警戒せよ

山岸登

神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。(第二テモテ4章1~5節)

現代ほど人権というものが主張されている時代はかつてありませんでした。社会のあらゆる場で人間主義が幅を利かせています。ただし、その人間主義は神なしの人間主義であり、人間を神の地位に置く人間主義です。すなわち進化論に基づく人間主義ですから、それを動物主義と言っても誤りではありません。それは人間の欲望、物欲、性欲、名誉欲を最大限に美化する主義であり、それらを何物よりも積極的に追求することをプラス思考、可能性思考と呼ぶのです。それはアダムの罪の結果堕落した人間性、すなわち肉を堕落したものとは認めず、肉の要求に従って積極的に生きることが人間にとっての幸せであるとする考えです。

このような世間の思想がキリスト教会の中にも入り込み、非常に大きな影響をクリスチャンたちに与えています。このような思想の持ち主の間では、神に従うための自己否定、聖潔の歩みのために肉の働きを殺すこと、キリストの僕として歩むための世からの分離等は忌むべきものであり、古くさい律法主義、時代遅れの敬虔主義として排斥されているのです。彼らはそれらをストレスの原因、人間抑制の有害な思想、聖書によるマインドコントロール、人間性無視の聖書原理主義と呼んでいます。

そして彼らはクリスチャンはそれらの有害な思想から解放されなければならないと主張しているのです。そして自我の要求のままに歩むことを恵みによる自由と呼び、自由に自己の肉の要求に応えることを祝福と呼んでいるのです。そして言葉では神を愛しているように語っても、心では世を愛し、世を楽しみ、自分を愛しており、たとえ表面は敬虔を装っても、神に対する服従心は皆無であるのです。

彼らの間には、滅び行く魂に対する憐れみはなく、福音伝道のために犠牲を払う思いはありません。当然彼らには人々が嫌がる地獄についての警告はなく、十字架の福音の伝道もありません。人間第一の教育を受けてきた人に対して、神の絶対主権を無視することが最大、最悪の罪であるからその罪を悔い改め、悔い改めにふさわしい実を結ぶべきであるとの勧めもありません。

彼らが語るものは、耳当たりの良い、人を怒らせない、不快感を与えない、非常に紳士的でソフトな、いい話しであるのです。彼らは人に取り入るために真理を曲げ、宗教については語るが神への服従については全く語らないのです。彼らは「空想話」しか語らないのです。その「空想話」とは、外装はあっても実のない話、敬虔の装いはあってもその実、すなわち真実な信仰、実のある信仰、神の絶対的主権の前に敬虔に頭を垂れる信仰を否定する宗教話を意味します。すなわち神を信じるとは言うものの、肉の欲の追求を肯定し、実際的にキリストの弟子としてキリストが歩まれたように歩むことを否定することです。

そのような集まりの中にあるものは、「自分のつごう」と「気まま」と「自分たちのため」、すなわち自分の肉にとって良いことだけであり、その場を支配しているものは、神の都合、神の御意志、神の益に対する全くの無視であるのです。神のための自己犠牲、献身、自我の抑制などは無価値なものとして、あるいは律法主義として捨てられています。

これが正にラオデキヤ主義であるのです。「いずくまでも行かん」とは歌いますが、キリストへの実際的服従はありません。「愛する主よ。我が君よ」とは歌っても、キリストのため、福音伝道のために自分の安楽を犠牲にすることはありません。そこにあるのは霊的貧困であり、肉の快楽を追求している自分が、どのような悲劇に向かっているのかの自覚は全くないのです。彼らは全くの霊的盲目状態にあります。このような自称キリスト信者こそ十字架の福音の敵であり、サタンの手先であるのです。

このような偽信者は使徒パウロの時代から存在していました。

というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。(ピリピ3章18、19節)

このような時代にある私たちはますます真理に対して忠実に歩み、使徒パウロの言葉を実行すべきであるのです。

兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。(ピリピ3章17節)

これは決して肉にとっては歓迎されないことです。デマスはそれについて行けず、肉の快楽を求め、世を愛してパウロから離れ、テサロニケに行ってしまいました。私たちは自分の肉を喜ばせながらキリストをお喜ばせすることはできません。キリストを喜ばせ、神に仕えようとするならば、自分の十字架を負いつつ自己否定の道を歩む以外にないのです。そしてこの地上では寄留者、旅人として天に国籍を持つ者の歩みをすべきであるのです。すなわち短いこの世での快楽を第一にするのか、天での永遠の楽しみを第一にするかの、どちらか一つを選ばなければならないのです。

私たちも自分の内に、アダム伝来の人間性、肉を持っているのです。肉は決して神を愛することをしませんし、神に従うことができません。また肉は非常に貪欲であり、もし私たちが肉を喜ばせるならば、肉はますます貪欲になり、要求をますます強めるのです。

肉は怪獣のようなもので、小さいうちは少しの餌で満足していますが、餌をやると大きくなり、どんどん食欲を増して行きます。餌をやり続けると、ますます大きくなり、終わりには飼い主の手に負えなくなります。最後には、飢えた怪獣は飼い主まで飲み込んでしまいます。

自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラテヤ6章8節)

主イエス・キリストは私たちを地獄の刑罰から救うためだけでなく、この肉の力から解放するためにも十字架にかかって死んで下さったのです。そして信じる私たちに聖霊を与えて下さいました。それは私たちに信仰によって、聖霊の助けを得てキリストに依り頼ませ、実際的に肉の力からの解放を経験させるためでした。

ですから私たちがその罪に対する勝利を現実に自分のものとするかしないかは、肉の誘いに対して「ノー」と宣言し、神のために生きることを決意し、その決意をキリストが実際的に行わせて下さることを日々信じるか信じないかにかかっているのです。

そして私たちがキリストを罪の力からの救い主として日々信じて歩むとき、私たちの内にある新しいいのちはますます強められます。そこには勝利の喜び、神との交わりの喜び、神のために用いられる喜びがあります。この喜びは肉の喜びとは比較できない真の喜びです。なぜならば、肉の喜びには堕落と死しかありませんが、御霊による喜びにはいのちと平安があるからです。私たちはこのような特権を無駄にしてはなりません。