悔い改めについて

山岸登

イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(ルカの福音書 13章2~5節)

聖霊も使徒パウロを通して次のようにお語りになりました。

ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たのです。(使徒の働き 26章20節)

ペテロの手紙には非常に重要な警告が記されています。

彼らは虚栄心から尊大なことを語り、迷いの中の生活から何とか逃れようとしている人々を肉体の情欲によって誘惑しています。彼らは、その人々に自由を約束していますが、彼ら自身が肉欲の奴隷です。だれでもそれに(肉欲に)征服されているならば、その奴隷にされているのです。(私たちの)主であり救い主である主イエス・キリストを知ることによって世の汚れから逃れても、その後に再び汚れに巻き込まれ征服されてしまうならば、その人たちの後の状態は以前の状態より一層悪いものになってしまいます。彼らにとって、義の道を知らなかったほうが、それを良く知った上で彼らに伝えられた聖なる命令に背くよりよかったのです。信ずべきことわざである「犬は自分が吐いた物に必ず戻るものである」とか、あるいは「豚は転げ回って自分の糞尿で身を洗う」が、彼らによって実証されたのです。」(ペテロの手紙第二 2章18~22節〈エマオ出版訳〉)

この「彼ら」とは偽教師たちのことです。彼らは自分たちもキリストを信じていると自称している者たちです。そして彼らは信仰を告白した後に一度は世の汚れから逃れたのですが、再び汚れに逆戻りしてしまったのです。

ヨハネの手紙第一3章9節には、次のように記されています。

だれでも神から生まれた者は、罪を犯し(続け)ません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯す(犯し続ける)ことができないのです。(ヨハネの手紙第一 3章9節)

このみことばによると主イエスを信じた者は罪を犯し続けることができません。その人の中に、キリストを信じたときに新しいいのちが与えられたので、その新しいいのちが罪を犯し続けさせないからです。そうすると、前掲のペテロの手紙第二の2章が語っている偽教師たちは、キリストを信じていると言っても救われていないことになります。彼らの中に新しいいのちが宿っていないのです。

彼ら偽信者も本当の信者もキリストを信じると告白しています。ではその違いは何にあるかというと、本当の信者は罪を悔い改めたのですが、偽信者は罪を悔い改めたことがないことにあるのです。すなわち、偽信者の信仰は本当の信仰ではないのです。実際に、キリストを信じると告白しても、しばらくは教会に来て、みことばを学ぶのですが、ある時から、何かのきっかけによって教会に来なくなり、信仰を全く失ってしまうような人もあります。

一方、主イエスは、ご自分の羊が決して失われないと約束してくださいました。

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。(ヨハネの福音書10章27~30節)

またヘブル人への手紙7章24、25節には、主イエスが大祭司としていつも生きておられ、私たちのために取りなしの働きをしておられるので、私たちを最後まで守り通してくださると記されています。

そのことは、信仰の歩みの途中で信仰から離れる者は、主イエスによって守られていなかったことになります。彼らが主イエスの本当の羊ではなかったからです。それは、彼らが告白した信仰が罪の悔い改めを伴った本当のものではなかったからです。

では、罪の悔い改めとは何を意味しているのでしょうか。私たちはどのようにして悔い改めに導かれたのでしょうか。テトスへの手紙の中で、使徒パウロは次のように語っています。

しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって(ふさわしい)、相続人となるためです。(テトスへの手紙 3章4~7節)

キリストを信じる前の私たちの心は、神に逆らう思想、神を無視する考え方、誤った価値観で汚れていました。それらの汚れのために福音を聞かされても私たちは全く理解できなかったのです。しかし、聖霊は福音のみことばを水として使い、私たちの心からそれらの汚れを洗い去ってくださいました。そして真理の光が心の中にまで達するようにしてくださいました。真理の光に照らされた私たちの良心は目覚めさせられ、罪を自覚させられました。そして聖霊は私たちに、もしそのまま肉に従って生きるならばその結果は永遠の地獄であることを教えてくださいました。しかし、キリストを信じるならば罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、神の子どもにしていただけることを教えてくださいました。ただし、キリストを信じる信仰は、肉の働きでもなく、理性の働きでもなく、感情でもなく、聖霊によって与えられる新しいいのちの働きであるのです。ですから、私たちが聖霊を受け入れない限り、決してキリスト信じることができないのです。

その時、聖霊は私たちに次のようにお語りになります。
「もしあなたが私を受け入れるならば、私はあなたの中に入ってあなたに新しいいのちを与え、あなたに永遠のいのちを与えます。ただし、私があなたの中に入り、宿ったならば、あなたの肉の働きを殺し続けます。あなたに肉のままに歩むことを許しません。それで、あなたは肉に従って生きて死ぬか、あなたのからだの行ないを殺す私を受け入れて、私によって生きる者になるかを選ばなければなりません。あなたはどちらを選びますか。」

この時、「はい分かりました。私は神に逆らう道を歩みたくありません。どうぞ私の中に入ってきてください。そして私を新しく生きる者にしてください。私は神の子どもになりたいのです。私はあなたを受け入れます」と言うことが悔い改めです。

ところが、人によっては、聖霊によって心が光に照らされ、福音を理解することが許された後にも、聖霊を拒み続けることもあり得るのです。メッセージを聞いてそれに感動することもあり、キリストを信じようと心が動かされ、聖霊によって真実にキリストを受け入れる一歩手前まで導かれても、サタンの偽りに惑わされ、キリストを受け入れることをちゅうちょする人もあります。

また、「信じると言うだけで良いのではないか。それまでの歩みを続けても良いのではないか。不信者との交際を続けても良いのではないか。信じるだけで救われるのだから教会に続けて行かなくても良いのではないか。特にクリスチャンの生活をしなくても良いではないか」というような悪魔からの考えに惑わされ、しばらくの間、聖霊に逆らうのですが、ついに聖霊の働きに屈して聖霊のみことばに同意し、真実に主イエス・キリストを受け入れる人もあります。

福音の真理の理解が与えられてから、真実に聖霊を受け入れるまでの間が短い人もありますが、長い人もあります。中には、福音を聞かされそれを理解させられて口でキリストを信じるとは告白したのですが、聖霊の働きによって真実に罪を悔い改めに至るまでの間、聖霊に逆らい続け、とうとうキリストを拒んでしまうような人もあるのです。このような人の中から、偽クリスチャンや、偽教師が出てくるのです。このような者たちが真実な悔い改めに至ることは決してありません。

サタンはこのような偽信者でも救われていると騙します。そして彼らに偽の安心を与えて、彼らの悔い改めを妨げています。しかし私たちは、そのようにサタンによって騙される者が出ないように、福音を明瞭に語り、聖霊が求道者の心に真実な悔い改めを与えることを妨げないようにすべきです。そして真実な信仰は、神への真実な悔い改めを伴うものであることを明瞭に語るべきです。