ベタニヤのマリヤ

山岸登

十字架を前にした最後の週の初めの日、すなわち過越の祭りの6日前、主イエス一行は、安息日をベタニヤの外で過ごされて安息日が終わった時、すなわち私たちの太陽暦に直すと土曜日の夕刻6時過ぎ、ベタニヤの町に入られたのです。次の朝エルサレムにメシヤとしてロバに乗って入られる予定でした。主イエスのために夕食が用意されていました。場所は当然マルタとマリヤの家であったと見るのが自然です。

主イエスはベタニヤに入られる前から幾度となく、ご自分がエルサレムで祭司長、長老たちによって苦しめられ、十字架に付けられて殺されると語ってこられたのです。しかし、それを本当に理解していた者はいなかったのです。皆、主イエスがメシヤであられることを確信していたので、メシヤが殺されるはずがないと思っていたので、主のみことばの意味が理解できなかったのです。

その晩餐が終わりに近づいた時、マリヤが立ち上がり、香油の入った壺を抱えてきました。そして主イエスの足に近づき、御足にその香油を塗り始めたのです。香油の香りが部屋いっぱいに広がりました。そして彼女は自分の髪の毛で主の御足を拭いました。

その時、イスカリオテ・ユダが突然叫びました。
「何というもったいないことをするのだ。その高価な香油を何で無駄遣いするのだ。それを売ったら悠に300万円には売れたはずだ。それを貧乏な人たちに分けてやる方が、よっぽど有効だ。」 

このような贅沢を許す主イエスが悪いと言わんばかりです。それにつられた他の弟子たちも、「うん、ユダの言う通りだ。確かにもったいない。マリヤに止めさせるべきだ」と考えたのです。そしてユダと一緒になってマリヤを非難しました。

しかし主イエスは言われました。

「マリヤをそのままにさせておきなさい。彼女が私の葬りの日までそれを取って置くことができるように。」
(ヨハネの福音書12章7節:原文からの私訳)

この主イエスのみことばは、マリヤが香油を全部今使わないで、主の埋葬の日にまで残して置くことができるように、マリヤに香油を売れと言ってならない、と意味しているとも取れます。あるいは、マリヤが香油を一部、主の埋葬の日まで取って置こうとしているのだから、するままにさせておくように、と意味しているとも取れます。いずれにしてもこの時、主イエスはマリヤに「あなたがわたしの埋葬の日が来た時、わたしに香油を塗ろうとしていることがわたしに分かっています」と意味されたことは明らかです。

マリヤが主にささげた香油は純粋なナルドの香油であったのです。その価格は300デナリに売れるほどでした。現在の価格で計算すると300万円以上であるでしょう。

さて、マタイの福音書にも、このヨハネの福音書12章の記事と非常に似ている記事があります。この時は、マタイ26章2節によると過越の日の2日前でした。すなわち今の太陽暦で言えば木曜日です。最後の晩餐が木曜日の夜でした。ユダヤ人の暦で言えば、今の木曜日の夕方の6時から、過越の祭りの前日である金曜日がすでに始まっていたのです。ですから、この時は主イエスが十字架に付けられる時が17、8時間後に迫っていました。

ベタニヤの町に住んでいる、元らい病であったが癒されたシモンの家で主イエスが食卓についておられた時、ひとりの女性がガラス瓶入りの極めて非常に高価な香油を持ってきました。(新改訳聖書はこれを石膏の壺と訳していますが本当は長い細首のガラス瓶です。中の香油を出す時その首を折ってしまいます)

マタイもマルコもこの女性の名を明らかにしていません。しかし、ベタニヤには、主イエスの頭に遠慮なく香油を注ぐことができた女性はマリヤしかいなかったでしょう。また、マルコの福音書は、ヨハネの福音書に記されている非難のことばと全く同じことばでこの女性が非難されていることを記しています。それを見ると非難の的も同じマリヤであったと見ることのほうが自然です。

しかしこの度の、彼女を弁護された主イエスのみことばがヨハネの記事とは異なります。

「この女は、わたしの埋葬のために、この香油をわたしのからだに注ぐということをしたのです。」
(マタイの福音書26章12節:原文からの私訳)

女性(マリヤ)は、明瞭に主イエスを埋葬する目的でこのことを行なったのです。主イエスはこのことを立派なことと評価されたのに、弟子たちは憤慨して金の無駄使いと言ったのです。ではこの問題を考えてみましょう。

確かに主イエスは貧しい方でした。主イエスが香水の匂いを好まれたとは考えられません。如何に御自身の埋葬のためといっても主イエスが飛び切り上等の、極めて高価な香油を所望されたとは考えられません。主イエスにはアリマタヤのヨセフの贅沢な墓さえ不似合いです。ですから主イエスにそのように高価なナルドの香油は全く不似合いであったと言っても間違いではないでしょう。また300万円以上の金を主の復活の後の福音伝道活動にささげることもできたはずです。

それでも主イエスはマリヤの行為を褒められ、それを喜んで受け入れられたのです。ですから、マリヤには弟子たちが理解できない高度な――いや、極めて高度な――動機があったのです。

さて、主イエスにとって十字架は非常に大きな悲しみであり、苦しみであったのです。できれば避けたいほどであったのです。いったい十字架の何がそのような悲しみを主イエスに与えたのでしょうか。

主イエスは永遠の初めから、無限の彼方から御父との完全な愛の交わりの中を過ごしてこられました。主イエスが人となられてこの罪に汚れた人間社会の中に入ってこられた後も御父との完全な愛の交わりの中を歩んでこられました。その交わりに一瞬の中断もあいませんでした。その主イエスが十字架の上で御父との交わりが途絶えるのです。御父の御顔が見えなくなるのです。

主イエスは完全な聖さの中を歩んでこられました。主は聖さを愛し、罪を忌み嫌い、憎んでこられました。その主イエスが十字架の上で罪を負い、罪そのものとして取り扱われなければならないのです。中でも恐ろしいことは、罪に対する神の怒りを受けることです。御子なる神は罪に対する神の怒りがどれほど恐るべきものであるかをよく知っておられました。その聖なる神の怒りの火によって焼かれるということがどれほどの恐ろしさであり、苦しみであるかを知っておられました。

その十字架に懸けられるために主イエスはこの世に来られました。この世に人としてお生まれになった最初の日から十字架は主の前にありました。そしてその十字架に向かって主は歩んでこられたのです。その十字架があと十数時間に迫ってきたのです。

ゲッセマネの園で主イエスは悲しみのあまり死ぬほどであると告白されました。主イエスは大声で涙ながら祈られました。十字架の上で飲み干さなければならない杯を、御父は主イエスに一口味わわせられたのです。主がその苦さを前もって知っておくためでした。その時、主イエスの全身から力が抜けてしまったのです。主は地面に伏せって汗を血のように流しながら祈られました。御父はその祈りに応えて御使いを送り、主イエスを助け起こされました。

そのように恐ろしい十字架を目前にし、主イエスの心に悲しみが満ちていた時、弟子たちの様子はどのようであったでしょうか。悲しいかな、自分の疲れを取ることを考えて眠っていたのです。主の御苦しみと悲しみを理解していなかったのです。ゼベダイの子たちの母は、自分の息子たちが主イエスの右と左に座れるかどうかを心配していたのです。その前、主イエスが、ご自分が十字架に付けられ、殺される時が迫ってきていると語られた時、ペテロは、主にとんでもないことをお語りになるなと諫めたのです。

何という無理解、落差、無関心でしょうか。しかしこの時ただひとり主の心の苦しみと悲しみを理解していた女性がいたのです。それがベタニヤのマリヤであったのです。彼女は何とかして人となられた神である主イエスに、自分が主の心の苦しみを理解していることをお知らせしたかったのです。これが彼女が極めて高価な香油を主の頭に注いだ動機であったのです。彼女の目には主イエス以外のものは何も見えていませんでした。彼女の心には主イエスへの思い以外に何もありませんでした。

特に、十二弟子のひとりユダがすでに主イエスを裏切り、たったの30枚の銀貨で売ろうとしていた時期にあってこのマリヤの心遣いは主イエスにとってどれほど大きな慰めであり、喜びであったでしょうか。裏切りと全き愛とは何という対照でしょうか。銀貨30枚と極めて高価なナルドの香油ほど差のあるものは他にありません。

神についての無関心、神の愛に対する無反応が支配しているこの冷たい――死体のように冷たい――世界にあって、ベタニヤのマリヤのような、神の御心への深い理解に基づく真実な熱い愛をもって神を愛することが私たちに許されているということは、私たちに与えられている恵みの中の最大の恵みであるのです。

創造主なる神と神の被造物である人間とが十字架を目前にしてこのように深い聖なる愛の交わりを持つことを可能にしたのが主イエスの十字架の御業です。