私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
(ピリピ1:21『新改訳2017』)

なぜならば、私にとって(私の中で働いておられる)キリストが生命活動(の源泉)であり、(肉体が)死ぬことは益であるからです。
(ピリピ1:21『エマオ出版訳』)

この「生命活動(の源泉)」は、「ト・ゼーン」の訳です。これは「ザオー(生きる)」の主格の不定詞です。そしてそれに「ト」という中性の冠詞が付いています。ですから、それは「生きているもの、いのちとして活動しているもの、生きていると見なされ得るもの」のことです。もし、パウロ自身が生きるということを意味しているならば、この「ゼーン」という不定詞の後に「ムー(私の)」という語が置かれているはずです。ですからこの「生きているもの」はパウロ自身ではありません。

そして、この節中の「キリスト」は無冠詞です。それは、キリストの力、働きを意味しています。すなわち、聖霊を通して、私たちの内に住み、働き、力を与えていて下さるキリストの働きを意味しています。ですから、パウロにとって、彼の中に聖霊を通して宿っておられるキリストこそが、死の力をも打ち倒して、いのちとして躍動し続け、パウロを生かす力の源泉であられたのです。

ですから全体の意味は、「十字架の上で死なれ、三日目に死の力を永久に打ち破り、復活され、永遠に生きておられるキリストが、聖霊を通して、私の中でいのちの活動力として働いておられるのです。そのキリストによって私は生かされているのです。そして、(肉体が)死ぬことは益です。私は肉体のいのちとは関係なしに、キリストによって生きているので、肉体から離れたなら、直ちにキリストと共にいることになるからです」ということになります。

クリスチャンだと自称する人々の中には、信者が肉体的に死ぬと無意識の状態になると思っている人々がいますが、それは誤りです。この聖句は明瞭に、キリスト信者が肉体的に死んだならば、ただちにキリストと共にいるようになることを明らかにしています。

パウロの中で、生命活動の源泉として力強く働いておられたキリストは、私たちの生命活動の源泉でもあられます。ただ私たちに必要なことは、どのような場合にも尻込みすることなく、キリストが必ず助けてくださるという信仰をもって、全く臆することなく、私たちの生を通して、また死を通して、私たちの身によってキリストが高らかに誉め讃えられることを切実に願い求めることです。自分の肉体の、あるいは心の弱さを、尻込みする理由にしてはなりません。それを神の栄光の現れの場として用いてくださるように神にささげてください。このように信仰の歩みを歩み始めるならば、一歩進めば、進むほどキリストのいのちの力が自分のうちに働いておられることを経験し、一層信仰が強められます。

編集部:ピリピ1:21に関する織田昭師の解説も以下に掲載します。

「わたしにとって、生きることはキリストである」は、私が現に生きているこの命は、私が自分の力で生きているのではない。キリストが私の中で生きている。私の命はそんな命なのだ……とこれは、「キリストで」“in Christ”生きると言ったパウロの生き方の真髄でした。

(山岸登)