信じるだけでは
いけないのか?

山岸登

このタイトルの意味は、キリストを信じている者は、救われた後、どのような歩みをしてもかまわないではないかということです。

初信者の中にはこのように考える人がかなりいます。それは福音伝道メッセージの中で「人間は罪人であるので行ないによって救われる資格を得ることは決してできない。神は善を全く行なうことができない罪人をも、信仰によって救ってくださる。私たちが救われるのは決して行ないにはよらず、ただキリストを信じる信仰によってである」と聞いたからです。

さらに初信の人はキリストを信じた後、「クリスチャンでも決して律法を守ることができない。私たちは無力な罪人に過ぎない。だから自分の行ないができていないからと言って自分の救いを疑ってはならない。たとい自分の行ないが悪くても救いの確信を失ってはならない」というメッセージを聞いて、自分が救われていることを喜び、神の恵みに感謝するのですが、行き過ぎをして、「信じるだけで救われているのだから、信じていればどのようなことを行なってもかまわないのではないか。自分の行ないについては気にすべきではない」と言うことが多々あるのです。その中に正しい点もあるのですが、足りない点もあります。

それは「信仰とは何であるか」という点です。イエス・キリストを信じるだけで救われるということを明瞭に語っている聖句の代表が次のヨハネの福音書3章16節です。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

しかしこの聖句の次の聖句がキリスト信じる信仰とはどのようなものであるのかを明瞭にしています。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(ヨハネ3章17~21節)

人々がキリストを信じない理由は神の真理の光を憎み闇を愛するからであり、キリストを信じる人は光のほうに来ます。すなわち信じないことは闇の中を歩むことを選ぶことであり、キリストを信じるとは光の中を歩むことを選ぶことなのです。ですからキリストを信じたものが闇の中をすなわち罪の中を歩み続けることを選ぶということはありえないのです。

主イエスの回りにまず集まってきた人々は収税人、前科者、遊女たちであったのです。主は彼らと食事を共に取られました。それを見たパリサイ人や律法学者たちは主イエスを非難しました。それに対して主は次のように語られました。

「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカ15章7節)

また、主はヨハネの福音書8章の罪深い女に対して、恵み深く罪の赦しを宣言されました。

イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」(ヨハネ8章11節)

しかし同時に悔い改めにふさわしく歩むように命じられました。

「今からは決して(今までのように)罪を犯し(続け)てはなりません。」

真の信仰は真実な悔い改めを伴っています。真実な悔い改めとは、神を神と認めずに自分の自我と欲望のままに自由奔放に歩んできたそれまでの人生を罪と認め、そしてその罪によって神を怒らせてきたことを認めて、救いを求めてキリストを信じ、キリストを自分の神とし、主として受け入れることを意味します。

ですからこのような真実な信仰でキリストを信じた者が、キリストを信じた者は自由であるのだから、自分の思いのまま自由に歩んでも良いのではないか、とは決して言いません。むしろ、イエス・キリストが私たちを愛する大きな愛のゆえに、私たちの救いのために御自分を犠牲にしてくださったのですから、私たちも喜んでキリストに真実な感謝と愛をささげ、主のみこころに服従することを喜びとすべきです。イエス・キリストが私たちを救ってくださったのは、私たちにわがままな歩みをさせるためではなく、心から神を愛する者にするためです。