クリスチャンの戦い

山岸登

クリスチャンとしての正常な生活を生きるためには自我(罪)に対してどのような態度をとるべきかという問題が最も重要であると言えます。しかしこの問題に入る前に、クリヤーしておかなければならないことは、罪過の問題です。罪過の問題について明確な教理を持っていなければ「歩み」の問題には入れません。

キリストが私たちの全ての罪過を十字架の上で御自分の身に負い、私たちの身代わりとなって全ての罪に対する神のさばきを受けてくださったために、キリストを信じた者は全き罪の赦しを得ています。キリストを、真実に信じている者は、この福音を明瞭に認めていなければなりません。

さらに、重要なことは、キリストを信じた者はキリストの羊として、良き羊飼いでいます主イエス・キリストの、恵み深い全能の御手によって完全に守られているという真理です。キリストは御自分の羊を失うということは、決してありません。キリストは御自分の羊を天の御国まで完全に守り通し、導き入れてくださいます。

これらの重要な問題についての疑問が完全になくなった上で、私たちが持たなければならない重要な教理があります。それは私たちの歩みに関する教えです。私たちの歩みを妨げる最大の障害物は、私たちの内に存在する罪です。私たちがキリストを信じる前には罪は全く問題となりませんでした。私たちが罪の奴隷であったからであり、罪を愛していたからです。しかし、キリストを信じた時、私たちは聖霊を受け、神から新しいいのちをいただきました。その新しいいのちは新しい性質を持っています。それで、私たちは二つのいのちを持つに至ったのです。アダムからの古いいのち、それは堕落した性質、罪を持っています。キリストからの新しいいのち、それは神を愛し、神に従うことを求める性質を持っています。この二つの性質は、全く対立していて、決して妥協しないのです。

古い性質、つまり自我は決して神に従おうとはしません。聖書はその古い性質を肉と呼んでいます。肉は神に逆らい続けます。もし私たちが肉に自由を与えるならば、すなわち肉の要求を満足させ続けるならば、私たちの歩みに希望はありません。あるのは悲劇です。私たちの内にいます聖霊は悲しみ、聖霊の働きは妨げられ、クリスチャンとしての成長はありません。また神も御自分の子どもたちにそのような歩みを決してお許しにならないのです。

それゆえ、私たちは次のことを認め、信じなければなりません。

①肉は私たちを神に逆らわせ、私たちの歩みを破壊し、全く惨めにすること。
②キリストはこのサタンの働きを打ち破り、私たちを神のみこころに従って歩ませるために救ってくださったこと。
③ですから私たちにとって、神が与えてくださった新しいいのちの内を歩み、神の御旨に従って生きることが真に幸いなことであること。

さて、私たちがこの神の御旨に従って新しい生活を始めようとすると、その途端、肉がそれに抵抗し、邪魔を始めます。その時、私たちはその自我に対して戦いを挑みます。しかし自我は非常に強力で、私たちの神に従って生きようとする願いを殺してしまうのです。

では、どのようにすれば、私たちはこの肉に対して勝利し、幸いな歩みを歩むことができるのでしょうか。これから語ることが非常に大切な真理であるのです。私たちは、罪に対する勝利をどのようにしたら得られるかを考える前に、絶対に知らなければならない真理があります。

キリストが十字架の上で死なれたのは、私たちを罪のさばきから救うために私たちの犯した罪を背負われただけでなく、罪の奴隷制度から私たちを解放するためにも、十字架の上で死んでくださったのです。私たちは救われる前は先祖アダムの中にあって、罪と死の力の支配下にありました。その古い私たちはキリストと共に十字架の上で死んでしまったのです。キリストは私たちを御自分と共に十字架の上で死んだものとし、そして御自分と共に新しいいのちにあって、すなわちキリストのいのちにあって生きるものとするためによみがえってくださったのです。

すなわち、私たちはキリストを信じた瞬間から、キリストによって神とのいのちのつながりの中に生きるものとされてしまったのです。そしてキリストが、私たちの内に住んでおられる聖霊を通して私たちに働きかけ、私たちを力づけ、歩ませてくださるのです。ですから私たちに必要なことはキリストを信頼する信仰であるのです。

そこで、私たちが常に覚えておくべきことは何でしょうか。

①かつて私たちはアダムにあったが、今はキリストの内にあること。アダムにあって生きている者は不信者であり、破滅に向かっている者たちです。しかし、私たちはキリストと共に十字架の上で死んでしまったのであり、その時かつての支配者であった罪に対して死んでしまったのであり、今はキリストと共にキリストにあって、神との親子の関係の中に、生きる者とされたのであり、キリストにあって永遠に生きているということ。
②ですから、私たちはもはや、かつてのように罪の奴隷のような生き方をすべきではないこと。
③キリストはキリストに信仰をもって依り頼む者に勝利を与え、勝利の中に歩ませてくださること。

これら三つのことを私たちは覚え続けるべきなのです。

しかし、私たちはしばしば失敗をする者です。どのような罪を犯しても、その罪は私たちから神との交わりの喜びを奪います。その時、ただちに神にその罪を告白し、罪が神を悲しませ、またその罪が私たちに大きな災いをもたらすことを認めなければなりません。そのような罪の告白がなされたなら、神は私たちを再び御自分との交わりの中に戻してくださいます。

私たちが失敗する前に、肉の要求がもっともであるように思え、肉の要求に応えてやるべきであると思ったのはなぜでしょうか。その原因は、私たちがキリストと共に罪に対して十字架の上で死んでしまったことを忘れたこと、そしてキリストを信頼しなかったことにあるのです。真のクリスチャンとは、キリストを地獄からの救い主としてのみならず、罪の力からの救い主として信じる者です。

2.世(偶像)に対する戦い

愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。(ユダの手紙1章3節)

最近のような猛暑が続くと、体がだるくなり、ちょっと動くと汗が流れるので「まあ、ゆっくりしようや」と、いつも出席していた集会を休み、会社での疲れをいやすために家でゆっくりしてしまう人々もあろうかと思います。家でゆっくりしているついでに、今まで集会に出席していたために見ていなかった野球の中継を見ようとテレビのスウィッチを入れ、野球の観戦に時間を使ってしまった。元々の野球好きであったので見入ってしまった。そして野球の後にドラマ、ニュース、ついでに外国でのサッカー放送を見て夜更かしをして余計に疲れてしまった、などということがありがちなのではないでしょうか(これは私の勝手な空想です)。そこで、なぜ私たちは信仰のために戦わなければならないのかについて考えてみましょう。

今日本の社会は非常な速度で変化しつつあります。公立学校で「君が代」を強制的に歌わせ、「日の丸」を掲げ、講堂では講壇の後ろに「日の丸」を張り、校長も教師もそれに向かって最敬礼をし、もし天皇夫婦の写真が飾ってあり、それに向かって「敬礼」と校長が生徒に向かって号令を掛ければ全くの敗戦前の姿です。そのうちに、祝日には各家の玄関に日の丸を出せ、との通達が出され、出していない家の前に、右翼がスピーカーでがなり立てるようになるでしょう。それで、皆が日の丸を出すようになる、出さない家の者は国賊呼ばわりされ、クリスチャンが出さないとクリスチャンは国賊だとなります。

しかしもっと恐ろしいことは、一般の人々が、クリスチャンになると日の丸を門に出してはならないから、国賊呼ばわりされる、それが怖いからクリスチャンにはならないという人々が出てきます。さらに、クリスチャンの中に、人々がクリスチャンになるのを「妨げてはならない」から、「証のために」日の丸を門に出すという、妥協する者も出てくることです。

現在の日本の様子を見ると、近い将来、確実にクリスチャンにとって困難な時代が来ることが予想されます。すでに福音伝道が以前よりかなり困難になっています。今のように伝道ができる時間は余り残されていません。今私たちはできるだけの伝道をしておかなければならないのです。

さらに、新聞を見ますと、引ったくり、路上強盗、殺人事件、幼児虐待や虐殺(しかも若い男女による)、暴走族の暴力事件、覚醒剤、麻薬等の諸悪がますます増加しています。まさにノアの大洪水直前の様子です。そして何者もこれを阻止できません。右翼は、自由主義がその悪の原因だと言います。イスラム教の国では、それがイスラム原理主義の台頭の原因となっています。日本では、中曽根や、石原のような天皇中心の国家主義、民族主義、神道主義者が発言力を強めています。小泉首相も確実にそのうちの一人です。彼も石原も一種のオカルト教団である霊友会の信者です。

彼らはそのような国家主義がどのような悲劇をもたらしたのか、どれほど多くの人の命がそのために粗末にされ、殺されていったのかをすっかり忘れてしまっているのです。

現在の悪と混乱の原因は、民主主義、自由主義ではないのです。神なき民主主義、神なき自由主義が原因であるのです。神のない自由は、個人の利益の追求、個人の欲望の追求、個人の権利のみの追求に陥ることは当然です。それで国家主義は、その神の代わりに、天皇を立て、あるいは神道のアマテラスを立てるのです。共産主義国家ではスターリン、毛沢東、金日成を神の地位に置いているのです。共産主義がどれほど多くの悲劇をもたらしたかは皆が同意します。それと同じ悲劇を国家主義はその国民に与えたのであり、また与えようとしているのです。すなわち国家主義も民族主義も、確実に偶像礼拝の制度であるのです。

これは、ローマ時代、クリスチャンたちが、ローマ皇帝か、それともイエスか、どちらに頭を下げるのか、の選択が迫られたことの再現です。多くのクリスチャンたちが、「イエス・キリストこそ私の主です」と告白して、殉教の道を選んだのです。

戦中、朝鮮のピョンヤン市のチュ・ギチョル牧師は神社参拝を拒否したために獄中で拷問を受け、それでも信仰を捨てないので、とうとう毒殺されました。その他、20名ほどの牧師がキリストに命を捧げたのです。今、日本社会はその時代に戻りつつあるのです。今、私たちは心を引き締め、「私の主は、イエス・キリストです」と声を大きくして告白しなければならないのです。そして声によってだけでなく、普段の生活の態度で、キリストに忠実に従って歩まなければならないのです。

3.サタンに対する戦い

しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。(第一テモテ6章11、12節)

クリスチャンの中には、このような戦いに参加すべき者は伝道者、牧師たちだけで、一般の信者はそれほど真面目に戦わなくても、程々にしておいてもいい、と思っている人々がいます。クリスチャンでもそれほど禁欲的にならなくてもいいではないか、たまには映画を見ても、ディズニーランドに行っても、USJに行っても、未信者と社内旅行に行ってもいいではないか、暑い日にビールを一杯ぐらい飲んでもいいではないか、あれもいかん、これもいかんと言うことは悪い律法主義ではないか、と言う人があります。

なかなか筋が通っているように聞こえる発言です。しかし聖書はそれに対してどう答えているでしょうか。

では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。(ローマ人への手紙 6章15節)

この「罪を犯そう」の「犯そう」はアオリスト時制で語られていると言うことは、「犯し続けよう」ではなく、「時々、単発的に犯す」ことを意味します。ですからこの節が意味していることはこうです。「私たちは、神の恵みによって取り扱われているのだから、少々、時々罪を犯しても、それによって神の恵みがなくなるわけではないはずだ。それどころか、神の恵みを信じて、自由に生きてもいいはずだ。一々、これは罪だ、これも罪だと言ってびくびくする必要はない。神の恵みを確信して、もっと大胆に喜んで生きよう。その方が神のみこころにかなっている。だから時々罪を犯してもかまわないのだ。」

この言葉のどこが間違っているかというと、最後の「だから時々罪を犯してもかまわないのだ。」という点です。このような考えで生きることが、大いに間違っているのです。

そもそも私たちはアダムの子孫として生まれ、死に至る罪の終身奴隷であったのです。私たちをこの哀れな身分から解放するために、キリストは十字架の上で死んでくださったのです。そして私たちは聖霊によって神に引き渡され、神に対する従順をモットーとして生きるべき義の奴隷とされたのです。このことを否定する者は、自分がキリストを信じていることを否定する者です。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。(ローマ人への手紙 6章16節)

ですから私たちは弱い罪人ですが、義の奴隷らしく、自分自身を神にささげて聖潔を求めて、聖潔に向かって進むべきであるのです。

このように私たちが天の召しにあずかっている者として歩もうとするとき、サタンは私たちを世俗的な人間になり下げようと私たちに戦いを挑んできます。このサタンの挑戦に対して私たちは勇敢に戦わなければならないのです。そして私たちは永遠に価値あるいのち、すなわちその価値が永遠に残る生涯を獲得するために戦わなければならないのです。

もし私たちがその戦いを戦わないならば、どのような結果が生じるのでしょうか。私たちは悪魔に食い尽くされてしまいます。(もちろん救いは失いません。)

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。(第一ペテロ 5章8、9節)

金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。(第一テモテ 6章9、10節)

実に多くのクリスチャンが世を愛し、世的な生活を求めたために信仰の道から迷い出て、信仰の破船に会ってしまいました。彼らの証の力は全く失われ、子供たちは信仰を持つに至らず、生活は乱れてしまいました。使徒パウロは次のように私たちに警告しています。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラテヤ人への手紙 6章7、8節)

このほかにも、多くの聖句が私たちに厳しい警告を与えています。この警告を無視してはなりません。聖霊は私たちにサタンに対して立ち向かい、戦うように勧めておられます。

ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。(ヤコブの手紙4章7、8節)

もし私たちが常に悪魔に対して戦う姿勢を保っているならば、負けることはないのです。戦う姿勢をとらないと、必ず敗北するのです。そして敗北してから悔い改めて、戦う姿勢をとっても、過ぎ去った時間は帰ってこないのです。私たちは、忍耐深く、常に信仰のために戦う姿勢をとり続けましょう。戦う者に主は必ず勝利の喜びをもって報いてくださいます。