私たちはなぜディスペンセイション主義に立つのか

山岸 登

ディスペンセイション主義という言葉は、非常に仰々しいので、何か特殊な、異常な、あるいは変な主義主張ではないかという印象を人々に与えますので、同じ内容を定義するもっと平易な言葉はないものかと考えるのですが、日本語でも英語でも見当たらないのです。その上、長年、この言葉が使われてきたので今からそれを変えることは国際的に無理なのです。それで万国共通のディスペンセイション主義という言葉を使うしか仕方がないのです。
 ではディスペンセイション主義とは何であるかを共に学んでみましょう。

ディスペンセイション主義は聖書の絶対的な権威を認める

まず第一に、ディスペンセイション主義者は聖書を絶対なる神の権威あるみことばであると固く信じています。それで、私たちは聖書のみことばを解釈するのではなく、そのまま、字義通りに受け入れるのです。その理由の裏付けを聖書から得ましょう。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル人への手紙 4章12節)


 この「判別することができます」と訳されている語は「さばく力がある」とも意味します。すなわち、神のことばは私たちをさばき、判定する能力を持っているのです。ですから人間が聖書をさばくのではなく、聖書が私たちをさばくのです。神のことば、すなわち聖書は生きています。ですから聖書は人によって解釈される必要はありません。聖書はそれ自身の内に人を生かす力を持っており、その力を証明する能力を持っているのです。
 次に第二テモテ3章16節です。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(テモテへの手紙第二 3章16節)

この聖句の「神の霊感によるもの」は、ギリシア語の「セオプネウストス」の訳です。正しくは「神の霊が吹き込まれている」と訳すべきことばです。ですからこの聖句の正しい訳は次のようであるべきです。
聖書のすべてには、神の霊が吹き込まれており、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
 この「セオプネウストス」は聖書形成の過程を語っているのではなく、聖書の現在の状態を語っています。すなわち聖書の一字一句には神の霊がこもっているので、真実に読む人の霊に働いて、その人を生かさずにはおかない力を持っていることを意味しています。新改訳の訳ですと、聖書は神の霊感によって成立されたと意味しているように取れますが、それはむしろ次の第二ペテロ1章20、21節が語っていることなのです。

それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(ペテロの手紙第二 1章20、21節)

この聖句の中の「私的解釈を施してはならない」ことは事実ですが、この箇所の正しい意味は「(書くために用いられた人の)私的解釈によってできているのではありません」であるのです。ですからその結果として、聖書を読む人が、私的解釈を施してはならないのです。聖書はそれ自体に説明能力を持っているのです。
 すなわち、人間が解釈しなければ意味が分からないようなものは、神のみことばではないのです。聖書が神のみことばであるならば、聖書はそれ自体が語り、生きており、自体が神のみことばであることを証明する能力を持っていなければならず、自体の意味を明瞭に説き明かす力を持っていなければならないのです。そして聖書は、聖書自身がそのようなものであると宣言しているのです。私たちが聖書を字義通りに受け取る理由は以上の通りです。
 

ではディスペンセイション主義に反対する人々はどのように語っているのでしょうか。彼らは超教派の人々です。彼らは、聖書は字義通りに受け取る必要はない、一人ひとりが解釈すべきであって、自分の解釈だけが正しいと言ってはならず、人の解釈も認めなければならないと言っているのです。聖書には色々な解釈があるのだから、ある解釈だけが絶対に正しく、他のものが間違っているとは言えない、と彼らは主張しています。要するに彼らは聖書には自己証明能力がなく、自体を説明する力もないと言っているのです。彼らも聖書は神のみことばであると信じるとは言っています。しかし聖書の主張を認めていません。もしそれを認めたなら超教派ではあり得なくなるからです。
 彼らは、ディスペンセイション主義も、聖書の数多くある解釈の中の一つであると言っていますが、彼らは私たちが何を主張しているのかを理解していないのでそのようなことを言うのです。
 私たちは聖書を解釈しないのです。聖書をそのまま、みことばの通り、信じ受け入れるのです。もちろん聖書を読む人の理解の深さや知識の量には個人差があることは認めなければなりません。しかしそれは解釈の違いの問題ではありません。私たちは聖書をそのまま字義通りに受け入れ、もし意味が理解できなければ無理に解釈せずに、御霊が教えてくださる時を待つのです。この態度は、聖書の権威の問題に関して非常に重要です。

 さて、このような心構えで聖書を読むならば、私たちは当然、霊的解釈、あるいは比喩的解釈と言われるものを排除します。比喩的解釈とは、次のような聖句を文字通りに取らず、無理に、聖句が語っていないことをあたかも語っているかのように、こじつけの解釈を施すことです。


その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。(アモス書 9章11節)

 比喩的解釈者たちは、このダビデの倒れている仮庵は教会のことである、そして廃墟とはユダヤ教のことであり、腐敗したユダヤ教の代わりに教会が建てられた、すなわち教会は霊的イスラエルであると言うのです。
 立派な肩書きを持った神学者という人が言うと、聖書がそのように語っていると思う人もあるでしょうが、そのような解釈は間違いであると同じ章の14節が示しています。

わたしは、わたしの民イスラエルの捕われ人を帰らせる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。(アモス書 9章14節)

 

 イスラエルの民とはイスラエル人を意味し、荒れた町々とは文字通りに荒れた町々のことです。
 さらに彼らは次のような聖句を文字通りには取りません。

その日、エジプトの国には、カナン語を話し、万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こり、その一つは、イル・ハヘレスと言われる。その日、エジプトの国の真中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。(イザヤ書 19章18~20節) 

 

比喩的解釈者はこのような聖句に遭遇すると、このエジプトの国の真ん中に主のために一つの祭壇が建てられるとは、エジプトの国の中にキリスト教会が建てられるという預言であると言うのです。しかし、イザヤ書19章全体を読むならば、これは千年王国についての預言であることは誰の目にも明らかです。このような比喩的解釈を排除して聖書を字義通りに受け入れるとイスラエルの民と教会とは全く別個のものであることが解ります。

ディスペンセイション主義は時の区分を認める

さて、聖書のみことばを文字通りに受け取るためには、アダムの時代から現在までの時間に幾つか区切りがあることを認めなければなりません。例えば次のようなみことばがその例です。

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。」(マタイの福音書 10章5~10節)


 主イエスがこのように語られたのは、主の、公の御生涯の初めの頃です。しかし、復活の後、主は次のように語られました。

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。(マタイの福音書 28章19節)

 主イエスは十字架以前には弟子たちに異邦人の所に行くなと命じられましたが、十字架後には全世界に行けと命じられました。これは十字架を境にして時代が変わったことを明らかにしています。次の聖句も十字架を境にして時代が変化し、その変化に従って主のみことばも変化したことを示しています。

それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」
(ルカの福音書 22章35、36節)
 

さらに次の聖句は、世、すなわち時代が改まり、新しい時代が来ることを語っています。

そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」(マタイの福音書 19章28節) 

次の聖句は、時代が複数であることを語っています。

この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界(注:アイオーナス=諸時代)を造られました。(ヘブル人への手紙 1章2節) 

さて、神のアダム以降の人類に対する統治の方法、あるいは摂理が時代ごとに変化することは次の聖句も示唆しています。

みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。
(エペソ人への手紙 1章9、10節) 

「この時のためのみこころ」は、各時代ごとの「みこころ」があることを示しています。
この聖句(10節)の中の「みこころが実行に移され」は原文のギリシヤ語では「オイコノミアのために」で、オイコノミアは日本語では、采配、摂理、執行、取り締まり、世話などを意味します。そして英語訳の聖書ではこの語をディスペンセイションと訳したのです。その訳からディスペンセイション主義という言葉が出来上がったのです。
 この時代の変化とそれに従った神の摂理の変化とを念頭に置きながら、聖書のみことばを文字通りに受け取ることを原則として聖書を読むとなると、私たちは、次の聖句はどのように受け取るのでしょうか。マタイの福音書5章17節から20節を引用します。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。(マタイの福音書 5章17~20節) 

 まず私たちはマタイの福音書が語っている「天の御国」とは何を意味しているのかをマタイの福音書全体から判断し、そしてその語がキリストの地上再臨によって実現されるキリストの王国、すなわち千年王国であることを知ります。
 主イエスがこれらのみことばを語られたのは、十字架の前であり、ユダヤ人に対してであることは明らかです。それで、17節の「律法や預言者」とは旧約聖書全体を意味し、特に旧約聖書の中に語られている神様のイスラエル人に対する約束、契約を意味していることが分かります。主イエスがこの地上に来られたのはその約束すべてを成就するためであるのです。千年王国が実現される前に神の契約「全部が成就されます。」
 ではイスラエル人が律法学者やパリサイ人の義に優る義を持つという、そして律法の最も小さいものまでも実行するようになるという神の契約は何処にあるのでしょうか。それで私たちは旧約聖書のエゼキエル書を開きます。

それゆえ言え。「神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える。」彼らがそこに来るとき、すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう。わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(エゼキエル書 11章17~20節)
それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。――神である主の御告げ。――わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。(エゼキエル書36章22~28節) 

 神は、患難時代の終わりにイスラエルの「残りの者」たちの心から不従順と反抗心を取り去り、神を恐れ敬い、神の律法を守り行なうようにすると約束しておられるのです。エレミヤ書31章31節から33節で神は、千年王国が始まる前に彼らと新しい契約を結ぶと約束しておられます。

見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ書 31章31~33節) 

患難時代の終わりには、この神の契約が実現され、悔い改めたイスラエルの民は神の戒めを完全に行なうように変えられ、彼らの義が、主イエスが地上におられた時の律法学者やパリサイ人たちの義にはるかに優るようになると主は約束されたのです。
 もしこのような旧約聖書に記されている神の契約を無視し(ディスペンセイション主義に立たない人々は千年王国の実現を信じません。あるいは千年王国の実現を認めていても神の契約の文字通りの成就を信じません)また時代の違いを認めない人々が、マタイの福音書5章のような聖句に遭遇すると、字義通りに解釈せず、聖書のみことばに彼らの勝手な解釈をこじつけるのです。ディスペンセイション主義に立たなければ聖書を正しく理解することは不可能であると極言しても差し支えないのです。また逆を言えば、聖書を正しく理解しようとすれば、ディスペンセイション主義に立たざるをえないのです。
 

 さて、時代は旧約の時代も幾つかにも区分されます。アダムが罪を犯した後からノアの時までは一つの時代です。その時代、殺人犯に対しても人間が復讐することが禁じられていました。

主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。(創世記 4章15節) 

しかし、時代が変わってノアの大洪水後は、殺人犯は人間によってさばかれ殺されなければならなくなりました。

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。(創世記 9章5、6節) 

ノアからアブラハムまではもう一つ別の時代です。この時代には異邦人と選民の区別はありませんでした。人類は、神が二度と大洪水によって全人類を滅ぼすことはないという契約を信じ、神の命令通り、全地に増え広がるべきであったのです。しかし彼らはシヌアルの地に天にまで達する塔を建てて神の命令に背きました。
 それで神はアブラハムを特別に選び分け、彼と契約を結ばれました。それでまた、それまでとは異なる新しい時代が始まりました。
 そのアブラハムの子孫、すなわちイスラエル人の歴史も、モーセの時、神と律法の契約を結んだために、神からそれまでとは違った取り扱いを受けるようになりました。

ディスペンセイション主義は信者を律法から解放する

 さて律法の時代はモーセから始まりました。律法の時代はある意味においてキリストによって贖いが成就されたことによって終えられたのです。その意味とは、イスラエルの民が律法を守ることによって神の前に義とされることが完全にありえないことと、人が義とされるのはキリストの血によるのであって、信仰によるということが明瞭にされたということです。
 元々、律法がモーセのときイスラエルの民に与えられたのは、アダムの子孫は罪の力の支配下にあるため人間の努力によっては決して神の律法を守ることができないことを明らかにするためであったのです。
 神がアダムの子孫である人類のために備えられた歩みの方法は信仰の歩みであったのです。これはアダム以降から永遠に変わりません。神は信仰をもって歩むことを求める者に神との親しい交わりの中を歩む助けを与えようと備えられたのです。それでエノクは信仰によって三百年間神と共に歩み、ノアも信仰によって神の命令に従い箱船を作ったのです。アブラハムも信仰によって歩みました。しかしエジプトを出てきたイスラエルの民は信仰によって歩むことを拒否しました。それで神はそのイスラエルの民のために信仰とは異なる手段を、すなわち神に頼らず律法を守る努力によって歩むという手段をお与えになりました。それはもしイスラエルの民が律法を守り正しい歩みをするならばさばかれないが、もし彼らが律法を守らず悪を行なうならばさばかれるというのです。その結果明らかになったことは彼らには律法を守る意志もなければ力もないということでした。イスラエルの民が律法によっては歩めないということと律法が罪の力の支配下にあるアダムの子孫のためには全く無力であることが証明されました。しかし律法が与えられた後も、イスラエルの民の中の信仰者が神を恐れ敬い信仰によって歩むということは全く変わりありません。
 

 時代の区分の中に前記の区分の他にもう一つの区分があるのです。それは異邦人の時という時代です。
 神はイスラエルの民に王をお与えになり、神の御旨に従った国を建て、また全世界を支配する責任をお与えになったのです。神によって建てられた最初の王はダビデでした。ダビデは信仰によって歩み、イスラエルの国を治めました。そして彼はその子のソロモンに王権を譲りました。神は彼に絶大な権力と、すばらしい繁栄をお与えになりました。しかし彼はその繁栄の半ばで堕落し、傲慢になり偶像礼拝を始めました。それで彼が死んだ時、前930年、イスラエルの国は、イスラエルとユダの二つに分裂してしまいました。それによってイスラエルの民には世界を支配するの力がないことが明らかにされました。さらに偶像礼拝に陥ったイスラエル王国は、前722年アッシリヤによって滅ぼされました。ユダ王国もヨシヤ王の死後、ひどい偶像礼拝に陥り前606年バビロニヤ帝国によって侵略され、独立を失いました。その後バビロニヤ帝国に反逆したため前586年に滅ぼされました。そしてユダヤ人はバビロンに捕囚として捕らえ移されました。
 それで神は世界を支配することを異邦人に委ねられたのです。その時から異邦人の時が始まったのです。その始まりはユダヤ人がバビロニヤ帝国の支配下に陥った前606年です。バビロニヤ帝国は前539年にペルシヤのクロス王によって滅ぼされました。神はバビロニヤの次にペルシヤ帝国に世界を支配することを委ねられたのです。神が預言者エレミヤによって預言された預言に従って、前606年から70年後の前536年に、ユダヤ人はペルシヤのクロス王によってエルサレムに帰還することが許され、神を礼拝する宮の再建に取り掛かりました。宮が再建されたのは、やはりエレミヤによる預言に従って前586年から70年後の前516年でした。しかしユダヤ人は完全な独立を得ることができませんでした。
 このペルシヤ帝国も終わりには堕落し、その後に台頭したマケドニヤのアレキサンドロス王によって倒されました。このようにして前336年にギリシヤ帝国が世界を支配しました。しかしアレキサンドロスが早死にしたため、ギリシヤ帝国は、ギリシヤ、アジア、シリヤ、エジプトの四つに分割されました。ギリシヤ時代も三百年間続きましたが、弱体化し、次第に力を増してきたローマが前37年に当時の世界を支配するようになり、前27年にアウグストが皇帝になった時、ローマ帝国の世界支配が確定したと言われえます。
 (一般の歴史観に従った年代表によると)紀元前4年に誕生された主イエスは紀元30年、テベリオス皇帝のときに十字架に付けられました。彼らは神の御子であられる主イエスをキリストとして受け入れることを拒み、殺しました。
 それで神もイスラエルの民を、一時的にですが、完全に選民の座から退けられました。
この時、神は教会の時代を挿入されたのです。この教会の時代は、神の、イスラエルの民のための御計画からも、また異邦人に対する神の御計画からも全く異なる特殊なものであるのです。この時代はそれ以前には全く啓示されていなかったのであり、神の御胸の奥に秘められていたのです。

ディスペンセイション主義は再臨の待望を与える

教会時代には、イスラエルの民と異邦人との区別はなく、誰でもキリストを信じる者が救われるという恵みの福音が宣べ伝えられています。そして教会の時代が進行している間、異邦人の時代も同時に進行しています。この教会の時代は、地上にいるキリスト信者すべてを天に引き上げるためにキリストが空中まで下って来られるキリストの空中再臨によって終えられます。

キリストの教会が地上から姿を消した時、異邦人の時代が再現します。そして教会の時代の間、姿を消していた第四の世界帝国であるローマ帝国が十の頭を持って復活します。その十人の王の後に偽キリストが出現し、世界を支配します。この時多くのイスラエル人がこの偽キリストを自分たちのメシヤ(キリスト)として受け入れ、この男と契約を結びます。
 この時から七年間の患難時代が始まります。この患難時代とは、サタンが立てた偽キリストに服従するこの世界に対して神の怒りが注がれ、神のキリストを十字架に付けて、サタンのキリストを受け入れたイスラエルの民に対して神の激しい怒りが注がれる時代です。
それと同時に、患難時代は神がこの患難時代の激しい苦しみを通してイスラエルの民に悔い改めの機会をお与えになる時代でもあるのです。
 この患難時代の間、悔い改めたイスラエルの民にもう一度、神の国の福音が罪の赦しの福音と共に宣べ伝えられます。
 この悔い改めたイスラエルの民のためにキリストが地上に再臨されます。それはこの地上に神の国を立て、神がアブラハムに約束された祝福を実現し、ダビデに約束された約束に従って主イエス・キリストがダビデの子として王となられ、この地上を支配して完全な正義と平和を実現するためです。
 このキリストの地上再臨によって、異邦人の時代は終えられます。偽キリストによってこの地上を支配しようというサタンの試みは完全に打ち砕かれます。
そのキリストの王国を千年王国と呼びます。この千年王国が実現された時、アダム以降の、キリストの教会に属している者以外のすべての信仰者がよみがえらされます。そしてイスラエル人の中の悔い改めてキリストを信じた全ての者と、選ばれた異邦人はこの千年王国に入ることが許されます。
 千年王国が終わった時、神は一度この旧創造の世界を消してしまわれ、それまでハデス(地獄)の中で苦しんでいた者たちを一度よみがえらせ、神のさばきの御座の前に立たせて、一人ひとりをその行ないに従ってさばき、永遠の火の池(ゲヘナ)の中に投げ入れてしまわれます。サタンもその中に投げ入れられます。
 そうして後、神は新しい天と地を創造されます。それは終局的平安と愛と喜びの永遠の世界です。もはや決して涙を流す必要はなく、死もなく、悲しみもない永遠の世界です。
前記のようにアダム以降の人類の時間は、幾つかの時代に、明瞭に区切られているのです。

ではなぜ神は時代を定められたのでしょうか。それには幾つかの理由があります。各時代は人類に対するテストの時代であるのです。

アダムからノアまでの時代は、人類が律法と政府なしに、理性と良心によって歩むことができるかどうかのテストの期間でした。そして人類はそれが全くできないことを証明しました。

ノアからアブラハムの時代は、簡単な政府と殺人を犯した者が人間によって処刑されるという簡単な法律によって、そして二度と大洪水によって地上をさばかないという神の契約によって人類が正しく歩めるかどうかのテスト期間でした。人類はそのテストにも不合格でした。人々は神の契約を信ぜず、再び洪水によって滅びることを免れるために人間の力によって天にまで達するための塔を建てようという愚かなことをしました。そしてこの時代に人類は偶像礼拝に陥りました。
 それで神はアブラハムを異邦人の中から選び出され、御自分の選民とされました。アブラハムは神の契約によって励まされた信仰をもって歩みました。
アブラハムからモーセまでの時代は、アブラハムの子孫、すなわちイスラエル人が、神がアブラハムと結ばれた契約を信じて先祖アブラハムのように、信仰によって歩むことができるかどうかのテスト期間でした。イスラエルの民には先祖アブラハムの信仰が遺伝しませんでした。信仰は遺伝しないことが明らかにされました。エジプトから救い出されたイスラエルの民は、神の奇蹟を幾度も見ながら、神を信頼しませんでした。彼らは信仰によって歩むことを拒みました。それで神は彼らに律法によって歩む道をお与えになったのです。

モーセからキリストまでの時代は、イスラエルの民が律法によって歩むことができるかどうかのテスト期間でした。しかし彼らはイエス・キリストを十字架に付け、律法によっても歩むことができないことを暴露しました。

教会時代が挿入され、キリストの空中再臨でその時代が終った時、人類がサタンの手に引き渡されます。そして人類はサタンには従うが神には決して従うことができないことを明らかにします。そして人類はさばかれます。
 また千年王国の後に、その間底なしの穴に閉じこめられていたサタンが一時解放され、地上の人間を誘惑することが許されます。誘惑されるのは不信者ですが、千年間のキリストによる完全な正義と聖さの、また完全な平和と公平の政治によってでも不信者は悔い改めないことが明らかにされます。

これらのテストによって明らかにされることは、人間は完全に罪の支配下にあるために自分を救う力が全くないことと、救いは神の一方的な恵みよるのであって、神の選びによるのであるということです。そしてそれは神の恵みの栄光が誉め称えられるためであるということです。

ディスペンセイション主義に立たないことによる弊害

これまで学んできたことによって私たちは神の御業の目的は神御自身の栄光を現わすことであると結論することができます。もしある種の神学が主張しているように、魂を救うことのみが神の御目的であるとするならば、千年王国も不必要になり、その前の患難時代も必要でなくなり、いやそれだけではなく教会とイスラエルを区別する必要もなくなります。主イエス・キリストが十字架の上で死なれたのは、ただたましいの救いのためであったことになり、従って神の御子がこの世に来られて人となられたのは、ただ単に十字架の上で贖いの業を成就するためだけであったことになり、主イエスはイスラエルの王、メシヤになられる必要もなかったことになるのです。

しかし聖書は明らかに主イエスはイスラエルのメシヤであられ、やがて千年王国の王となられると語っています。ですから、そのような神学の教理に従って聖書を学ぶと、聖書がイスラエルと語っているところを教会と読み替え、患難時代について語っているところをクリスチャンがこの地上で経験する試練と読み替え、千年王国の祝福について語っているところをクリスチャンが経験する霊的祝福と読み替えなければならないことになるのです。そしてその読み替えには高度の熟練と技術が必要なので一般の信者にはそれができず、結局聖書は素人には理解できない難しい謎物と思われてしまっているのです。

これは実に聖書に対する冒涜です。神が分けの分からない書物を御自分のことばとして私たちにお与えになるはずがないのです。
 ディスペンセイションの真理を無視して聖書を読むならば、必ず遭遇する混乱の中の主なものは次のものです。

 ①イスラエルの民とキリストの教会との混同
 ②キリストの空中再臨と地上再臨との混同
 ③クリスチャンと律法との関係の誤解
 ④福音の真理の誤解

すでに説明したように神には、この地球の支配権をサタンから奪い返し、もう一度それを人間の手に返し、人間に神の栄光を現わさせる御計画があるのです。その御計画の中で特に重要な役目が与えられている民族があります。それがイスラエルの民です。神はイスラエルの民に地球上の全ての民族を真理に従って支配させ、神の栄光を現わさせられます。その時、イスラエルの民自身も全き知恵と力を持っておられる王によって支配されます。その王は完全な正義と公正をこの地上に実現されます。それが千年王国であり、その正義と平和を実現させてくださる王こそ主イエスです。ですからイスラエルの民のために約束された祝福はすべて地上的な祝福です。しかし、神にはイスラエルの民の御計画とは全く異なるもう一つの御計画があるのです。それは御自身の御子のための花嫁を見つけ出すことです。

花嫁は花婿と地位、財産、誉れを分かち合います。神の御子の花嫁は、御子と御父からの祝福を永遠に分かち合います。花婿と花嫁は永遠に愛し合い、喜びを分かち合います。
神は異邦人の中からまたイスラエル人の中から人々を選び出し、御子自身の血によって贖い、それらの人々をもって一人の花嫁を造り出そうとしておられるのです。御子は御自分の前に聖く傷のない清純なおとめを御自分の花嫁として迎えるために十字架の上で死んで下さったのです。
 このキリストの花嫁である教会に約束されている祝福はイスラエルの民のための祝福とは比較にならぬほど大きなものであり、しかもそれは永遠の祝福です。このように祝福された教会をユダヤ人と混同し、霊的イスラエルと呼ぶことは非常に悲しむべき誤解です。しかしこれは非常に一般的な間違いです。

イスラエルの民と教会との混同は、次のまた深刻な誤りに人々を導いています。それはキリストの空中再臨と地上再臨との混同です。
 キリストは、神への反逆と不信仰をもってキリストを拒絶し、十字架に付けたイスラエルの民を七年間の患難時代の中でさばかれます。しかしその患難時代の中で悔い改めた者たちを救い、彼らの先祖アブラハムと結ばれた約束を成就させるために、メシヤとして地上に再び来られ、彼らの王となられ、千年間の至福の王国を実現されます。このキリストの地上再臨は激しいさばきの患難時代の後です。患難時代は未だかつて人類が経験したことのない苦しみの時代です。それは神が人類に対して激しい怒りを発され、人類の罪に対して怒りをぶちまけられるからです。

しかし空中再臨は、この患難時代の前に、地上にいる、教会に属する御自分の民を天に引き上げるために天から空中まで降りてこられる再臨です。それは御自分の民を、全人類に対する怒りに会わせないためにあるのです。その時、キリストはそれまでに死んでいた聖徒たちの霊を引き連れて空中まで降りてこられます。その時彼らのからだはキリストと同じ栄光のからだによみがえらされ、その時まで生きている聖徒たちは、生きたままキリストと同じ栄光の姿に変えられ天に引き上げられ、何時までもキリストとともにいることになるのです。
 空中再臨の前には前兆は全くなく、何時あるか分かりません。ですから私たちはそれが何時あってもよいように常に用意していなければならないのです。これは非常に幸いな、栄光ある望みです。教会とイスラエルとを混同している者たちにとって、この区別はつかないので、彼らにはキリストの空中再臨についての正しい望みが持てないのです。

さらにディスペンセイションの真理に立たない人々は、イスラエルの民とクリスチャンとの区別を付けないために、クリスチャンの歩みに関する大きな誤りにぶつかっているのです。
 神はイスラエルの民に今から約3500年前に律法をお与えになりました。それは、人間が罪人であるから、律法を守る努力によっては救いを得ることができるほど神の前に義とはなり得ないことを彼らに分からせるためであったのです。しかしイスラエルの民は律法を守ると神に約束したのです。ですから彼らは律法を守るよう努力し続けなければならないのです。しかしその律法は、彼らに律法を守るように命令はしても守る力は与えません。
 しかしキリスト信者は律法の下にいるイスラエルの民ではありません。私たちはキリストのいのちによって新しく、神の子どもとして生きる者とされたのであり、キリストとの愛の交わりの中を聖霊の導きによって生きるのです。聖霊は日々私たちにキリストの愛を教え、キリストを愛する愛によって歩むように導いておられます。キリストは私たちに神のために生きる力を与え、動機を与え、志を起こし、信仰を与えてキリストによって歩ませておられるのです。

ディスペンセイションの真理に立たない人が陥る間違いの中にはもう一つ深刻なものがあります。
 聖書を一字一句神のみことばであると信じながら、時代の区別を見落としたために、主イエスがユダヤ人のメシヤとして弟子たちに下された命令を教会時代の私たちに適用してしまい、しかもそれが実行不可能であることを知り、主イエスのみことばの権威を疑ってしまう人もあるのです。
 主イエスは弟子たちを二人ずつ組にして、病人を癒し、不思議を行なう力を与えて遣わされ、財布も持ってはならないと命じられました。その時主は彼らに異邦人のところに行くなと命令されました。このことが現在にも実行されると思う人は、現在にも福音伝道には病気の癒しが行なわれ、奇蹟がなければならないと思っています(ただし異邦人の所に行くな、は実行しなくてもよいと思っているようです)。
 主イエスの公の御生涯の初期に弟子たちにも奇跡を行なう権威をお与えになったのは、第一に彼らがメシヤによって遣わされたメシヤの弟子であることを証明するためであったのです。第二に、ユダヤ人たちはその奇蹟を見た上で主を拒んだのであり、奇蹟と不思議の業では罪人を悔い改めに導くことができないことが証明されるためであったのです。もし病人の癒しによって人々が悔い改めてキリストを信じるのであるならば、ユダヤ人たちは主イエスの行なわれた奇蹟によって皆悔い改めたはずであるのです。
 サタンはキリスト教会にある誤った教えを利用し、自分には癒しの力があると宣伝する偽伝道者を起こし、多くの信者を惑わし、またそれを信じた多くの未信者をつまずかせているのです。また、多くの牧師たちがキリストの十字架による罪の赦し、永遠の地獄の刑罰からの救いを説かないのもディスペンセイションの真理を知らないからなのです。

このように、聖書を正しく学び、正しい信仰の歩みを歩むためにはディスペンセイションの真理を知ることは絶対的に必要なことであるのです。またそれは聖書を正しく読むならば、自ずから、誰もが学び得る聖書自体が教えている真理であるのです。