ローマ人への手紙
1
- キリスト・イエスの奴隷パウロ、神の福音のために選び分けられて*、召しを受けている使徒(より)。
- ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して聖書の中で前から約束しておられたものであって、
- 肉〔血筋〕によってはダビデの子孫としてお生まれになった御子に関する福音であり、
- 聖なる御霊の御力による死者たちの中からの復活によって神の御子として確証された御方、すなわち私たちの主イエス・キリストに関する福音です。
- 私たちは、このキリストを通して、御名のために全ての異邦人の中で、人々を信仰による従順に至らせる恵みと使徒の務めを受けました。
- あなたがたも、異邦人の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。──このパウロから、ローマにいる全ての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。恵みと平安が私たちの父なる神と主イエス・キリストからあなたがたの上にありますように。
- (6節に接続)
- まず、第一に、あなたがた全てのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝しています。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
- 私が、神の御子についての福音の伝道によって、私の霊をもってお仕えしている神が私の証人です。私が如何に絶え間なく、私の祈りの度ごとにあなたがたのことを思い出し、
- 私があなたがたのところに行くことが神のみこころであることを信じているので*、何としてでも、あなたがたの所に行く道が開かれるようにと、今も、どのように切に願っているかを、神は証してくださいます。
- というのは、私はあなたがたに会い、あなたがたと霊的賜物のいくらかを分かち合い、(それによって)あなたがた(の信仰)が堅く立たせられることを熱望しているからです。
- これは、実に、互いの中にある信仰によって、あなたがたのところで、私のために、そしてあなたがたのためにも励ましとなるためです。
- 兄弟たちよ。私は、他の国民の中でと同じように、あなたがたの中でもいくらかの実を得ようと、あなたがたの所へ行こうと何度も決心したのですが、今に至るまで(その度ごとに)妨げられて来たことを、あなたがたが知らずにいることを欲しません。
- 私には、ギリシア人にも未開人にも、また知識のある人にも知識のない人にも、負債があります。
- それで、私は力の限りを尽くして、ローマにいるあなたがたにも福音を宣べ伝える心の備えができているのです。
- なぜならば、私は福音を恥にしていないからです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人をも、信じる全ての者を、救いに至らせる神の御力です。
- なぜなら、その中に神の義が、信仰〔神に依り頼むことを生活の原則とする原理〕に基づいて、信仰(の原理)に対して〔神に依り頼むことを生活の原則とする原理で生きている人に対して〕啓示されている*からです。それは、「信仰(の原理)に基づく**義人は生き続ける。」と書かれているとおりです。
- 実に、神の怒りは、真理(の進展)を不当に妨害している人々のあらゆる不敬虔さと不正に対して、天から啓示されているのです。
- なぜならば、神についての知識が彼ら〈人類〉の間に存在していることは明白であるからです。実に神が(それを)彼らに明示されたのです。
- 世界の創造以来の、神についての目に見えないもの、実に神の永遠の力や神性を、被造物〈人類〉は明白に認識しています。ですから彼らに弁解の余地はありません。
- 彼らは、神を知っていながら神として崇めず、また神に感謝を捧げていません。そのため(彼らの)推理力は役立たずになり、実に彼らの愚かな心は闇とされてしまっています。
- 彼らは自分が知識人であると主張しているけれども、愚かなことをする性格に変えられています。
- そして不滅の神の栄光を、滅ぶべき人間、鳥、獣、爬虫類と同じ姿へと置き換えてしまいました。
- それゆえ神は、彼らを、彼ら自身の心の肉欲による不潔(な行動)に引き渡してしまわれました。その結果、(彼らは)彼らの仲間の間で自分自身の身体を侮辱するに至っています。
- それで、彼らは神の真理を偽りに替えてしまい、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えています。造り主こそ、とこしえに誉め讃えられるべき御方です。アーメン。
- このようなわけで、神は彼らを恥ずべき情熱に引き渡してしまわれました。彼らの中のある女性たちは、彼らの生まれつきの用を自然に反するものに換えてしまっています。
- 同じように、男も女性との自然の用を捨てて、男同士で性欲に燃え、男が男と恥知らずなことを行っています。彼らは自分の誤りにふさわしい報いを自分自身に受け取っています。
- また彼らが神についての認識の、慎重な判断による受け入れを拒んだため、神は彼らを悪質な考えに引き渡してしまわれました。そのため、彼らは嫌悪すべきことをも行うに至っています。
- 彼らは、あらゆる不正と邪悪さと貪りと悪意とのために、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとで満たされた者たち、悪口を言う者たち、
- 人をそしる者たち、神を憎む者たち、自制心のない凶暴な者たち、高ぶる者たち、大言壮語する者たち、悪の発案者、親に逆らう者たち、
- 弁えのない者たち、約束を破る者たち、情け知らずの者たち、無慈悲な者たちになっています。
- 彼らは、このようなことを行う者らが、死罪に値するという神の定めを知っていながら、それらを行っているばかりでなく、それらを行う者たちとお互いを認め合っているのです。
- 1.*「選び分けられて」は「選び分ける」の完了時制(選び分けられた結果、終生選び分けられたままである)「使徒」=拝命大使、特任大使
- 10.*「私が…行くことが神のみこころであることを信じているので」の直訳は「私があなたがたのところに行く神のみこころによって」
- 17.*新改訳聖書は「信仰に始まり信仰に進ませる」と訳していますが、原文には「進ませる」という動詞はなく「信仰から信仰へ」は「啓示されているに結びついています。( )内の「原理」は補足です。**「信仰(の原理)に基づく」の「基づく」は前置詞ἐκの訳です。このἐκを「…による」と訳すことは、誤りです。しかし「信仰に基づく」だけでは意味が不明瞭なので捕捉の説明を付けました。
- 1.*「選び分けられて」は「選び分ける」の完了時制(選び分けられた結果、終生選び分けられたままである)「使徒」=拝命大使、特任大使
- 10.*「私が…行くことが神のみこころであることを信じているので」の直訳は「私があなたがたのところに行く神のみこころによって」
- 17.*新改訳聖書は「信仰に始まり信仰に進ませる」と訳していますが、原文には「進ませる」という動詞はなく「信仰から信仰へ」は「掲示されているに結びついています。( )内の「原理」は補足です。**「信仰(の原理)に基づく」の「基づく」は前置詞ἐκの訳です。このἐκを「…による」と訳すことは、誤りです。しかし「信仰に基づく」だけでは意味が不明瞭なので捕捉の説明を付けました。
2
- それですから、ああ、(他人を)さばく全ての人よ。あなたは言い訳ができません。なぜならば、あなたが他人をさばくために用いているもの〈律法〉があなた自身を有罪と宣告しているからです。それは、(他人を)さばいている人自身が同じことを行っているからです。
- 私たちは、神のさばきが、そのようなことを行っている者たちに対して、真理に従って向けられているということを知っています。
- ああ、そのようなことを行っている者たちをさばきながら、同じことを行っているあなたは、自分が神のさばきを逃れることができると思っているのですか。
- それとも神の慈愛があなたを悔い改めに導くことを認めようとせず、慈愛と忍耐と寛容の豊かさを軽蔑するのですか。
- それで、あなたは、あなたの頑固さと悔い改めのない心によって、御怒りの日、すなわち神の正しいさばきの現れの日における御怒りを自分自身のために積み上げているのです。
- 神は各々に、それぞれの働きに従って報いられます。
- *神は、良い働きの着実な継続によって、栄光と誉れと不滅のものとを求めている者には永遠のいのちを報いられますが、
- *他方、自我の追求によって生きている者、すなわち真理に従わず、不義に従う者らには怒りと激しい憤りとを報いられます。ユダヤ人をはじめギリシア人にも、全て悪を働き出している人のたましいの上には苦難と重圧が報いられ、
- ユダヤ人をはじめギリシア人にも、全て善を実行する者には栄光と誉れと平安が報いられます。
- 神には偏見がありません。
- それゆえ、だれでも法律の下以外で罪を犯した者は、法律の下以外で滅びます。だれでも法の中で*罪を犯した者は、その法の中でさばかれます。
- ですから、律法の言うことを聞く者が、神の前で正しいのではなく、法の実行者が義と認められることになるのです。
- なぜならば、(仮に)法を持っていない異邦人たちが本性上、(モーセの)律法*に記されていることを行っているならば、彼らは法を持っていなくても**彼ら自身が法であるからです。
- 彼ら異邦人たちは、彼ら自身の心の中に(モーセの)律法の働きが記されていることを示しています。彼らの良心もそれを証言しています。実に、彼らの中での、色々な理屈が互いに責めたり、言い訳したりして、それを証しています。
- 私が語っている福音に従えば、神はさばきの日に、キリスト・イエスによって人々の隠されているもの〈罪〉をおさばきになります。
- あなたは、ユダヤ人と呼ばれ、律法に信頼を置き、神を(知っていると)誇り、
- そして神のみこころを熟知し、(モーセの)律法から教えられて、より優れた物を見分けており、
- 知識と真理の実体を(モーセの)律法の中に持っているので、自分が盲人の手引き、闇にいる者たちの光、無知な者たちの教諭、幼児の教師であると確信して、他人をいつも教えていながら、なぜ自分自身を教えないのですか。(他人に)盗むなと教えているあなたが、盗んでいるではないですか。
- 姦淫を犯すなと説いているあなたが姦淫を犯してもいいのですか。偶像を忌み嫌っているあなたが宮荒らしをしているではないですか。
- 律法*を誇っているあなたが、律法を犯して神を辱めているではないですか。
- それは、「あなたがたのゆえに、神の御名が異邦人の間で汚されている」と記されているとおりです。
- それで、あなたがもし規律正しい歩みをしているなら、割礼は益です。しかし、もしあなたが規律の違反者であるならば、あなたの割礼は無割礼に等しくなってしまいます。
- ですから、もし無割礼の者が、(モーセの)律法の正しい教えを注意深く守り続けているならば、その人の無割礼は割礼に等しい価値があると勘定されないでしょうか。
- 自ら(知らずに)(モーセの)律法を常に守っている無割礼の者は、あなたを、(律法の)書かれた条文と割礼を持っていながらの規律違反者として責めないでしょうか。
- それで、外見のユダヤ人がそう〈ユダヤ人〉ではなく、また外見の、肉につけられた割礼がそれ〈割礼〉ではありません。
- しかし、(血統だけによらず)隠れた所〈心の中〉からのユダヤ人がそれ〈本当のユダヤ人〉であり、そして文字によらず、霊による心の割礼がそれ〈本当の割礼〉なのです。その(人の)誉れは人からではなく、神から来ます。
- 7.*ユダヤ人と異邦人を問わず、真の信仰者の姿を表現しています。
- 8.*あらゆる民族の中の不敬虔な者たちの姿を表現しています。
- 12.*「法の中で」=法が支配している所で。
- 14.*「(モーセの)律法」の「律法」には冠詞が付いています。その場合は、聖書はモーセの律法を意味しているので(モーセの)を補足しました。**「法を持っていなくても」の「法」は無冠詞。この場合、それは、モーセの律法だけを意味せず、それ以外の律法、あるいは道徳律、戒律などをも意味しています。真の信仰には、神のみこころに従い、神をお喜ばせすることを喜ぶ願望を持っている新しい性質が与えられています。ですから真の信仰者は律法による外部からの戒めは必要ではなく、心の中に律法を持っています。
- 23.*この「律法」は無冠詞です。この場合、前後関係からその「律法」が、明らかにモーセの律法の「教え、内容」を意味していることが分かります。
- 7.*ユダヤ人と異邦人を問わず、真の信仰者の姿を表現しています。
- 8.*あらゆる民族の中の不敬虔な者たちの姿を表現しています。
- 12.*「法の中で」=法が支配している所で。
- 14.*「(モーセの)律法」の「律法」には冠詞が付いています。その場合は、聖書はモーセの律法を意味しているので(モーセの)を補足しました。**「法を持っていなくても」の「法」は無冠詞。この場合、それは、モーセの律法だけを意味せず、それ以外の律法、あるいは道徳律、戒律などをも意味しています。真の信仰には、神のみこころに従い、神をお喜ばせすることを喜ぶ願望を持っている新しい性質が与えられています。ですから真の信仰者は律法による外部からの戒めは必要ではなく、心の中に律法を持っています。
- 23.*この「律法」は無冠詞です。この場合、前後関係からその「律法」が、明らかにモーセの律法の「教え、内容」を意味していることが分かります。
3
- それでは、ユダヤ人(であること)の利点は何でしょうか。また割礼の益とは何でしょうか。
- あらゆる点で大いにあります。それは、実に、第一に神の啓示が彼らに委ねられたことです。
- それではどうでしょう。ある者たちが信仰を持たなかった場合、その者たちの不真実さが神の真実さを無効にするでしょうか。
- 絶対にあり得ません。全ての人間を偽り者としても、神は真実な方であられるとすべきです。このように記されています。「あなたが、あなたのみことばによって、常に正しいと認められるためであり、あなたはさばかれても、(常に)勝利を得られる。」
- さて、もし私たちの不義が神の義を証明するとしたら、私たちは何と言いましょうか。怒りを下す神は正しくないのではないでしょうか。──これは私自身の言葉ではありません。〈私は人間流に語っています。〉──
- そんなことは絶対にあり得ません。もしそうでないならば、神はどのようにして世をさばくことができるのでしょうか。
- 「しかし私の偽りによって神の真実さが満ち溢れて、神の栄光となっているとしたら、なぜ私が罪人としてさばかれなければならないのでしょうか。」
- ──ある者たちは、私たちも、「善が現されるために悪を行うべきである」と語っていると、私たちを非難するようにではなく、(実に私たちが彼らの仲間であるかのように)*発言しています。──そのような者に対するさばきは正しいのです。
- では何と言いましょうか。私たち〈ユダヤ人〉は(異邦人よりも)優れているのでしょうか。いいえ、全く(そうではありません)。私たちはすでに、ユダヤ人もギリシア人も全て罪の支配下にあると指摘しました。
- それについては次のように記されています。
「義人はいない。一人もいない。 - 悟りのある者はいない。神を求める者はいない。
- 全ての者は迷い出てしまった。そして共に役立たずになってしまった。善を実行する者はいない。一人さえもいない。
- 彼らの喉は開かれた墓である。彼らは、舌で(人を)騙す。彼らの唇の下にはコブラの毒がある。
- 彼らの口はのろいと苦さで満ちている。
- 彼らの両足は血を流すために素早く動く。
- 廃墟と悲惨が彼らの道にある。
- 彼らは平和の道を知らない。
- 彼らの目の前には神への恐れがない。」
- しかし、私たちは、(モーセの)律法が告げていることが全て、(モーセの)律法の支配下にいる者たちに対して語っていることを知っています。それは全ての口が黙らされ、全世界が、神に対し有罪であるとの判決を受けるためです。
- そのわけは、律法の行いによっては、神の前に義と認められる者が一人もいないからです。人は、律法によっては、罪についての十分な知識が(与えられるのみです)。
- しかし、今や、律法の原理とは無関係に、しかも(モーセの)律法と預言者たちによって証されて、神の義(の御業)*が明らかにされています。
- すなわち、イエス・キリストを信じる信仰を通して、全て信じる者のために行われる神の義(の御業)です。
- それには全く差別がありません。なぜならば、全ての人が罪を犯したからです。そのために、全ての者が神から誉れを受ける資格を失っている*からです。〔全ての者は神の誉れに達し得ません。〕
- しかし、全ての人は、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるのです。
- 神は、この方〈キリスト・イエス〉を──その血を信じる信仰を通して(有効とされる)──なだめの供え物として公に示されました。それは、神が、それ以前に犯された(多くの)罪過を御自分の憐れみの深さによって見逃してこられたので、ご自分の義を明らかに示すためでした。神は、御自身が義であられ、かつイエスへの信仰に基づく者を義とする御方であられるために、今この時に、御自分の義を明らかに示されたのです。
- それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような法則によってでしょうか。行いの法則によってでしょうか。いいえ、信仰の法則によってです。人は律法の行為とは無関係に、信仰によって義と認められると、私たちは結論しています。
- 神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではありませんか。確かに、異邦人の神でもあられます。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰に基づいて義と認めてくださり、実に割礼のない者をも信仰に基づいて義と認めてくださいます。
- では、私たちは信仰によって律法(の役目)*を無効にしてしまうのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法(の役目)を確立するのです。
- 8.*( )内は、この節の意味を明瞭にするための補足。
- 21.*「義(の御業)」の原語はδικαιοσύνη(無冠詞)。それは、キリストを信じる罪人を義とする神の御業を意味しているので、(の御業)を補足しました。
- 23.*「神から誉れを受ける資格を失っている」=直訳:神の栄光に足りない、神の誉れに達しない。
- 31.*「律法(の役目)」の( )内は補足。原文の「律法」が文脈からモーセの律法を意味していることが明らかですが、無冠詞なので、モーセの律法の働き、役目を意味しています。
- 8.*( )内は、この節の意味を明瞭にするための補足。
- 21.*「義(の御業)」の原語はδικαιοσύνη(無冠詞)。それは、キリストを信じる罪人を義とする神の御業を意味しているので、(の御業)を補足しました。
- 23.*「神から誉れを受ける資格を失っている」=直訳:神の栄光に足りない、神の誉れに達しない。
- 31.*「律法(の役目)」の( )内は補足。原文の「律法」が文脈からモーセの律法を意味していることが明らかですが、無冠詞なので、モーセの律法の働き、役目を意味しています。
4
- それでは、私たちは、肉による私たちの先祖アブラハムがどう理解していたと言いましょうか。
- もしアブラハムが行いに基づいて義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神に対してはできません。
- なぜならば、聖書が次のように言っているからです。「そしてアブラハムは神を信じた。それ〈神を信じたこと〉が彼のために義認に至ると認められた。」*
- 働く者にとって、報酬は恩賜としては見なされず、当然受け取る権利のあるものと見なされます。
- しかし、働きはなくても、不敬虔な者をも(信仰に基づいて)義と認めてくださる御方を信じる者のためには、その者の信仰が義認に至るものと認められます。
- ダビデもまた、行いなしに、神によって義と認められている人の幸いを、こう言っています。
- 「罪過を赦され、罪過を覆い隠された者たちは、幸いである。
- 主によって、罪過が自分の負債勘定に入れられない者は幸いである。」
- それでは、この幸いは、割礼の者の上だけにあるのでしょうか。それとも無割礼の者の上にもあるのでしょうか。それで、私たちは、アブラハムのために彼の信仰が義認に至るものと認められた、と言います。
- ではどのような状態の時にそれが認められたのでしょうか。割礼の状態においてでしょうか。あるいは無割礼の状態においてでしょうか。彼が割礼の状態の時ではなく、無割礼の状態の時にです。
- 彼は、信仰による、しかも無割礼の状態での信仰に基づく義認の承認として割礼というしるしを受けました。それは彼が、無割礼の状態で信じている全ての者<異邦人信者>の父となるためであり、無割礼の者にも義認が認められることのしるしとなるためでした。
- また、割礼の民に属しているだけでなく、私たちの先祖アブラハムの、無割礼の状態の時の、あの信仰の足跡に従って歩む者<ユダヤ人信者>たちにとっての、 割礼の父ともなるためでした。
- なぜならば、アブラハムが世界の相続者になるべきであるという約束がアブラハムに、また彼の子孫に与えられたのは、律法(の原理)によってではなく、信仰による義認(の原理)*によってであるからです。
- 仮に律法(の原理)に基づく*者が相続人であるならば、その信仰は無価値にされてしまっており、その約束も無効にされてしまっていることになります。
- それは、(モーセの)律法が怒りをもたらすからです。律法がないところには(契約)違反*もありません。
- それゆえ、恵みによるためには、全てが信仰(の原理)に基づくべきです。それは、その約束が、アブラハムの全ての子孫に、すなわち律法に属する子孫に対してだけでなく、私たち全ての父であるアブラハムの信仰に属する子孫に成就されるためです。
- それで次のように(聖書の中に)記されています。「わたしはあなたを(非常に)多くの民族の父に任命した。」彼が信じた神は、死人を生かし、(未だ)存在していない者を(すでに)存在しているかのようにお呼びになる御方です。そして、実に、彼はその神の御前で任命を受けたのです。
- 彼は神を、望み得ないときになお望みをもって信じました。それは彼が、「あなたの子孫はこのようになる。」と語られた約束のとおり、(非常に)多くの民族の父となるに至るためでした。
- 実に彼は、自分の身体がおよそ百歳であるので、すでに死んでいることを、そしてサラの胎の死んだ状態であることも認めましたが、信仰において弱らず、
- 神の約束ゆえに、不信仰によって動揺させられませんでした。かえって信仰が強められ、その結果、彼は神に栄光を帰しました。
- そして彼は、神が約束されたことを成就することがおできになることを、十分に確信させられました。それゆえに、それ〔彼の信仰〕は義認に至るものであると認められたのです。〔彼はその信仰によって義と認められたのです〕。
- 彼のそれ〈信仰〉が彼の義認に至ると認められたと書かれたのは、彼のためだけでなく、私たちのためにでもあるのです。義と認められるべき者たち、すなわち、私たちの主イエスを死者たちの中からよみがえらされた方を信じる者たちのためにもです。
- 主イエスは私たちの罪過のために死に引き渡され、私たちが義とされるためによみがえらされました。
- 3.*「その信仰が彼のために義認に至ると認められた」を、新改訳聖書は「それ(信仰)が彼の義と見なされた」と訳しています。その訳も、ギリシア語の構文としては可能ですが、文脈全体から見て、誤りです。信仰が義の代わりにはなりません。聖書は明らかに、罪人がキリストを信じるとき、その信仰のゆえにキリストの血によって義とされると語っています。創世記第15章6節が語っていることは、アブラハムが神の約束を聞いて信じたので、神がその信仰を真実な信仰と認めてくださって、その信仰のゆえに、アブラハムを義と認めてくださったということです。ですからこの節もその真理に従って訳されるべきです。ですから詳しく訳すと、「アブラハムの信仰が、神がその信仰に基づいてアブラハムを義と認めることができるほど、確かなものであると認められた。」となります。
- 13.*「律法(の原理)によって」、「信仰による義認(の原理)によって」の「よって」は前置詞διὰの訳です。διὰは「…を通して、…を介して」を意味します。
- 14.*「…に基づく」は前置詞ἐκの訳です。
- 13-16.(の原理)が付いている「律法」、「信仰」は全て無冠詞です。それは、律法、義認、信仰の働きが強調されているからです。その意味を明瞭に表すために(の原理)を補足しました。
- 15.*この「違反」はπαράβασιςの訳です。παράβασιςは「境界線を越える」を本来意味しています。それで、「規定を破る、違反を犯す」などを意味するために用いられますが、ここではむしろ「契約違反」を意味すると取るべきです。
- 3.*「その信仰が彼のために義認に至ると認められた」を、新改訳聖書は「それ(信仰)が彼の義と見なされた」と訳しています。その訳も、ギリシア語の構文としては可能ですが、文脈全体から見て、誤りです。信仰が義の代わりにはなりません。聖書は明らかに、罪人がキリストを信じるとき、その信仰のゆえにキリストの血によって義とされると語っています。創世記第15章6節が語っていることは、アブラハムが神の約束を聞いて信じたので、神がその信仰を真実な信仰と認めてくださって、その信仰のゆえに、アブラハムを義と認めてくださったということです。ですからこの節もその真理に従って訳されるべきです。ですから詳しく訳すと、「アブラハムの信仰が、神がその信仰に基づいてアブラハムを義と認めることができるほど、確かなものであると認められた。」となります。
- 13.*「律法(の原理)によって」、「信仰による義認(の原理)によって」の「よって」は前置詞διὰの訳です。διὰは「…を通して、…を介して」を意味します。
- 14.*「…に基づく」は前置詞ἐκの訳です。
- 13-16.(の原理)が付いている「律法」、「信仰」は全て無冠詞です。それは、律法、義認、信仰の働きが強調されているからです。その意味を明瞭に表すために(の原理)を補足しました。
- 15.*この「違反」はπαράβασιςの訳です。παράβασιςは「境界線を越える」を本来意味しています。それで、「規定を破る、違反を犯す」などを意味するために用いられますが、ここではむしろ「契約違反」を意味すると取るべきです。
5
- ですから、信仰に基づいて義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神に対して平和を持っています*。
- また、私たちは、この方によって、恵みの中に入る特権を、信仰によって獲得しました。その結果、私たちは今その恵みの中に立っています*。そして神の栄光にあずかる望みを大いに喜んでいます。
- そればかりではなく、私たちは患難の中にあって喜んでいます。それは、患難が忍耐を働き出し、
- 忍耐が(良い)品性*を、この(良い)品性が希望を働き出すと知っているからです。
- この希望は(私たちを)失望させません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に溢れるばかりに注ぎ込まれているからです。
- 実に、キリストは不敬虔な者たちのために、しかも私たちが弱かった時に、しかも定められた時に、死んでくださいました。
- 正しい人のためにでも死ぬ人がいるでしょうか。多分、まれには、善人の身代わりとなってあえて死ぬ人がいるかも知れません。
- しかし、私たちがまだ罪人である間に、キリストは私たちのために死んでくださいました。それによって神は私たちに対するご自身の愛を明示しておられます。
- ですから、今すでにキリストの血によって義とされている*私たちは、なおのこと当然キリストによって神のあの怒り**から救われるのです。
- もし私たちが敵である間でさえ、神が私たちをご自分の御子の死によってご自分と和解させられたのであれば、なおさらのこと、和解させられている*私たちが、キリストのいのちによって救われる**のは当然です。
- そればかりでなく、実に、ご自分の死を通して私たちに神への和解を得させてくださった、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは今、神を大いに喜んでいるのです。
- このように、ひとりの人〈アダム〉を通して罪が世界〈人類全体〉に、そしてその罪を通して死が世界に入りました。実にそのとおり、死は全ての者に及びました。そのわけは全ての者が罪を犯したからです。
- 実に、律法が来る前にもすでに罪は世界にありました。しかし罪は、律法がなければ、(罪を犯した)人の責任として認定されません。
- しかし、死は、アダムからモーセまでの間も、アダムが犯した違反と同じ形で罪を犯さなかった人々を支配しました。アダムはきたるべき御方のひな型です。
- ただし、その違反とその恵みとは(結果が)異なります。すなわち、ひとり〈アダム〉の違反によっては多くの人が死にました。そうであるならば、ましてや神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物〈永遠のいのち〉が、多くの人々に満ち溢れたのは当然です。
- *また、恵みの賜物は、罪を犯したひとりの人〈アダム〉を通して来たものとは異なります。さばきの場合は、一つの違反〔アダムの罪〕のゆえに(神が)人に有罪の判決を下すに至りましたが、他方、恵みの場合は、多くの罪を犯した者を(神が)義と認める決定を下すに至りました。
- もしひとりの人〈アダム〉の違反によって、死が、そのひとりの人のゆえに、暴君のように支配したのであれば、なおさらのこと、恵みの賜物と義認の賜物との溢れるばかりの豊かさを受けている者たちが、ひとりの人イエス・キリストを通して(聖霊によって)、(新しい)いのちにあって王のように力強く(永遠に)支配し続けるのは当然です。
- こういうわけで、ちょうど一つの違反を通して(神のさばきが)全ての人に対する処罰という結果に至ったように、一つの義の行為〈イエス・キリストの十字架上の死〉を通して(神の恵みは)全ての人に対するいのちの義認という結果に至りました。
- すなわち、ちょうどひとりの人〈アダム〉の不従順によって多くの者が(本質的に)罪人*と認定されたように、ひとりの人〈キリスト〉の従順〈贖いの御業〉によって多くの人が(本質的に)正しい者**と認定されたのです。
- しかし、律法が忍び込んだ*結果、違反が増し加わりました。しかし、罪が増し加わったところには、恵みが満ち、満ち溢れました。
- 罪は死を通して(人間を)王のように支配しました。しかし、恵みは、私たちの主イエス・キリストを通して、(信じる者を)義とすることによって王のように支配し、永遠のいのちを得させるのです。
- 1.*「持つ」の完了時制(得た、そして今持っており、今後も持ち続ける)。
- 2.*「立っている」は完了時制(立った、今も立っている、そして今後も立ち続ける)。
- 4.*「品性」:δοκιμὴの訳。試練によって、その本質が真正であることが実証された美徳を意味しています。
- 9.*「今すでに…義とされている」は「義とされる」のアオリスト時制(決定的に義とされた。だから今も義とされている)。このようなアオリスト時制は完了時制に近似しており、日本語では現在時制に訳さなければなりません。**「あの怒り」は特定の怒りを意味しています。それは、全世界に神の怒りが注がれてさばかれる7年間、すなわち患難時代のことを意味していることは明らかです。真のクリスチャンは、患難時代が来る前に空中再臨によって天に引き上げられます。
- 「和解させられている」は「和解する」のアオリスト時制受動態です。このようなアオリスト時制は過去を意味せず、完了時制に近似して「決定的に和解させられた、だから今も和解している」を意味しています。ギリシア語の「和解」とは「仲直り」を意味せず、「態度を変える、敵が心を変えて、態度を変えて味方になる」ことを意味しています。悔い改めと同じ意味です。
**患難時代から救われることを意味しています。 - 16.*直訳:「そしてその恵みの賜物は、罪を犯したひとりの人を通した(もの)とは異なります。なぜならば、一方で、さばきはひとりから有罪判決に至り、他方、恵みは多くの違反から義認に至ったからです。」
- 19.*「罪人」:ἁμαρτωλοὶ(堕落した人間、無法者、節制のない者)
**「(本質的に)正しい者」:δίκαιοι(神を崇め尊ぶ者、神を恐れ敬う者)2ペテロ1章4節参照。 - 20.*「忍び込んだ」:παρεισῆλθεν(知らぬ間に入り込む、密かに入り込む、忍び込む)
- 1.*「持つ」の完了時制(得た、そして今持っており、今後も持ち続ける)。
- 2.*「立っている」は完了時制(立った、今も立っている、そして今後も立ち続ける)。
- 4.*「品性」:δοκιμὴの訳。試練によって、その本質が真正であることが実証された美徳を意味しています。
- 9.*「今すでに…義とされている」は「義とされる」のアオリスト時制(決定的に義とされた。だから今も義とされている)。このようなアオリスト時制は完了時制に近似しており、日本語では現在時制に訳さなければなりません。**「あの怒り」は特定の怒りを意味しています。それは、全世界に神の怒りが注がれてさばかれる7年間、すなわち患難時代のことを意味していることは明らかです。真のクリスチャンは、患難時代が来る前に空中再臨によって天に引き上げられます。
- 「和解させられている」は「和解する」のアオリスト時制受動態です。このようなアオリスト時制は過去を意味せず、完了時制に近似して「決定的に和解させられた、だから今も和解している」を意味しています。ギリシア語の「和解」とは「仲直り」を意味せず、「態度を変える、敵が心を変えて、態度を変えて味方になる」ことを意味しています。悔い改めと同じ意味です。
**患難時代から救われることを意味しています。 - 16.*直訳:「そしてその恵みの賜物は、罪を犯したひとりの人を通した(もの)とは異なります。なぜならば、一方で、さばきはひとりから有罪判決に至り、他方、恵みは多くの違反から義認に至ったからです。」
- 19.*「罪人」:ἁμαρτωλοὶ(堕落した人間、無法者、節制のない者)
**「(本質的に)正しい者」:δίκαιοι(神を崇め尊ぶ者、神を恐れ敬う者)2ペテロ1章4節参照。 - 20.*「忍び込んだ」:παρεισῆλθεν(知らぬ間に入り込む、密かに入り込む、忍び込む)
6
- それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまり続けるべきでしょうか。
- とんでもないことです。私たちは罪に対して死んでしまっている*のです。そのような私たちが、どうして、なおもその中に生き続けることができるでしょうか。
- それとも、キリスト・イエスにバプテスマされた者はみな、キリストの死にバプテスマされたのだ、ということをあなたがたは知らないのですか。
- すなわち、私たちは、キリストの死へのバプテスマによって、キリストと共に葬られたのです。それですから、その結果、キリストが御父の栄光によって死者たちの中からよみがえらされ(今生きておられ)るように、実に私たちも、(決定的に)新しいいのちの力*によって歩く者になっているのです**。
- なぜならば、私たちは、〔私たちの〕キリストとの死の型〈バプテスマ〉によって、(それが語っているように)実際にキリストの死に合致させられてしまっている*のですから、私たちは、(キリストの)復活の型**〈バプテスマによって水から引き上げられること〉によって(それが語っているように)なおさら実際にキリストの復活にも合致させられて(キリストのいのちによって永遠に)生き続けるのです。
- このことを知ってください。私たちの(アダムの子孫としての)古い人間は、(キリストと共に)十字架に付けられたのです。それは、罪のからだが支配者の座から引き下ろされ*、その結果、私たちがもはや罪に奴隷のように奉仕し続けないためです。
- なぜならば、(一度)死んだ者は、罪〈単数〉から義とされてしまっている*からです。
- それで、私たちは、キリストと共に(一度)死んだ以上、キリストと共にいつまでも生き続けると信じます。
- 私たちは(このことを)知っているからです。キリストは死者たちの中からよみがえらされて、(今生きておられ、)もはや死なれません。死はもはやキリストを支配しません。
- 実に、キリストが死なれたのは、ただ一度だけ、罪に対して*死なれたのです。キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
- このように、あなたがたも、事実、自分が罪に対して死んでいるのであり、キリスト・イエスにあって神に対して生きていると、勘定し続けなさい。
- ですから、罪にあなたがたの死ぬべきからだを支配させ続け、その情欲に服従し続けることになってはなりません。
- また、あなたがたの手足を不義の武器として、罪(の利益)に提供し続けてはいけません。むしろ、死者たちの中から(よみがえらされて)生きているとして、あなたがた自身を神に、すなわちあなたがたの手足を義の武器として神に(一度限りの決断として、決定的に)ささげてしまいなさい。
- それは、罪があなたがたをいつまでも支配し続けることがないからです。なぜなら、あなたがたは律法(による取り扱い)の下にではなく、恵み(による取り扱い)の下にあるからです。
- それではどうなるのでしょう。私たちは、律法(による取り扱い)の下にではなく、恵み(による取り扱い)の下にあるのだから(たまには)罪を犯してもかまわないのではないでしょうか。決してそうではありません。
- あなたがたは、自分自身を何かにささげて、それに服従しているならば、あなたがたが服従している相手の奴隷であることを知らないのですか。すなわち、あなたがたは、罪の奴隷となって死に至るか、従順の奴隷となって義に至るかのどちらかです。
- 神に感謝します。なぜならば、あなたがたは以前、罪の奴隷でしたが、あなたがたが引き渡された〔適応・適用・適合させられた〕その教えの型*〈バプテスマの語る真理〉に心から順応(服従)したからです。
- 罪から解放されたあなたがたは、義〈神の義の御業〉の奴隷にされました。
- あなたがたにある肉の弱さのゆえに*私は人間的に**説明します。あなたがたは、(以前、)自分の手足を不潔にささげてその奴隷になっていました。実に無法にささげて無法に至っていました。しかし、今は、聖潔に至るために、あなたがたの手足を神の義の御業に、奴隷として、決定的に***ささげてしまいなさい。
- 実に、あなたがたが罪の奴隷であったとき、あなたがたは(神の)義に対しては自由人でした。
- その時、あなたがたはどのような実を得ていたのですか。今、あなたがたはそれらを恥ています。それらのものの結末は死です。
- しかし今、あなたがたは罪から解放され、神の奴隷とされています*。それであなたがたは、聖潔に至る実を得ているのです。そしてその結末は永遠のいのちです。
- 罪が支払う報酬は死です。しかし、神からの賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
- 2.*「死ぬ」のアオリスト時制。このような文脈の中では、これはアオリスト時制の総括的用法と取り、日本語ではあたかも完了時制のように「死んでしまっている」と表現すべきです。
- 4.*「新しいいのちの力」の原語には「力」という語はありませんが、「新しいいのち」に冠詞が付いていないため、それは「新しいいのちの活動、性格、力」を意味しているので補足しました。
**「私たちも、(決定的に)…歩く者になっているのです」は、「歩く」の接続法アオリスト時制一人称複数の訳です。「歩くためです」とも訳すことも可能ですが、そうすると、原文の意味が薄れてしまいます。それで、少々直訳から離れますが、意味をより正確に訳し出すことに重点を置きました。 - 5.*「合致させられてしまっている」は完了時制です。この文の条件節に「もし」とも訳し得る接続詞εἰがありますが、前提節にこのように強い時制(完了時制)が使われている場合は、そのεἰは「もし」と訳さず、「…が事実ですから」あるいは「…が事実である以上」と訳すべきです。
**「型<バプテスマによって水から引き上げられること>によって(それが語っているように)なおさら実際にキリストの復活にも合致させられて」の部分は、原文では、省略されていても、前半の文からその意味は明瞭です。しかし、日本語での表現ではそれを省略すると全体の意味が不明瞭になります。それで、原文で省略されている部分を日本語にして挿入したのです。 - 6.*「座から引き下ろされ」:καταργηθῇ これを「滅ぼす」と訳すと、誤解を招きます。
- 7.*「義とされてしまっている」は完了時制です。
- 10.*「義に対して」=罪との主従関係において(奴隷は生きている限り、主人の所有物です。しかし、しんだならば、もはや主人のものではなく、主人の手から離れています。その奴隷は、主人であった人に対して死んだのであり、そして死んでいるのです。)
- 17.*「型」:τύπον バプテスマを意味すると取るべきです。私の知る限りロバートソン博士以外のほとんどの訳者は、他の訳です。
- 19.*理解力の不足のゆえに。**常識的に。***「ささげる」のアオリスト時制の命令形。この意味を明瞭にするために「決定的に」を補足しました。
- 22.*「奴隷にされた」(アオリスト時制)と訳すことも可能です。しかし、前後関係から、日本語では現在時制で表現すべきと判断しました。
- 2.*「死ぬ」のアオリスト時制。このような文脈の中では、これはアオリスト時制の総括的用法と取り、日本語ではあたかも完了時制のように「死んでしまっている」と表現すべきです。
- 4.*「新しいいのちの力」の原語には「力」という語はありませんが、「新しいいのち」に冠詞が付いていないため、それは「新しいいのちの活動、性格、力」を意味しているので補足しました。
**「私たちも、(決定的に)…歩く者になっているのです」は、「歩く」の接続法アオリスト時制一人称複数の訳です。「歩くためです」とも訳すことも可能ですが、そうすると、原文の意味が薄れてしまいます。それで、少々直訳から離れますが、意味をより正確に訳し出すことに重点を置きました。 - 5.*「合致させられてしまっている」は完了時制です。この文の条件節に「もし」とも訳し得る接続詞εἰがありますが、前提節にこのように強い時制(完了時制)が使われている場合は、そのεἰは「もし」と訳さず、「…が事実ですから」あるいは「…が事実である以上」と訳すべきです。
**「型<バプテスマによって水から引き上げられること>によって(それが語っているように)なおさら実際にキリストの復活にも合致させられて」の部分は、原文では、省略されていても、前半の文からその意味は明瞭です。しかし、日本語での表現ではそれを省略すると全体の意味が不明瞭になります。それで、原文で省略されている部分を日本語にして挿入したのです。 - 6.*「座から引き下ろされ」:καταργηθῇ これを「滅ぼす」と訳すと、誤解を招きます。
- 7.*「義とされてしまっている」は完了時制です。
- 10.*「義に対して」=罪との主従関係において(奴隷は生きている限り、主人の所有物です。しかし、しんだならば、もはや主人のものではなく、主人の手から離れています。その奴隷は、主人であった人に対して死んだのであり、そして死んでいるのです。)
- 17.*「型」:τύπον バプテスマを意味すると取るべきです。私の知る限りロバートソン博士以外のほとんどの訳者は、他の訳です。
- 19.*理解力の不足のゆえに。**常識的に。***「ささげる」のアオリスト時制の命令形。この意味を明瞭にするために「決定的に」を補足しました。
- 22.*「奴隷にされた」(アオリスト時制)と訳すことも可能です。しかし、前後関係から、日本語では現在時制で表現すべきと判断しました。
7
- それとも、兄弟たちよ、─私は律法(の原理)を知っている人々に語っています─あなたがたは、(モーセの)律法が、人が生きている限り、その人を支配していることを知らないのですか。
- 結婚している女性は、生存中の夫に、律法によって拘束されています。しかし、もし夫が死んだなら、夫に関する律法から全く解放されています。
- しかし、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と宣告されなければなりません。しかし、もしその夫が死んだなら、(婚姻の)律法から解放されており、たとい他の男に行ったとしても、姦淫の女にはなりません。
- 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだを通して、(モーセの)律法に対して死なされたのです。その結果、今や、あなたがたは他の人、すなわち死者たちの中からよみがえらされた御方のものとなっており、神のために実を結んでいるのです。
- と言うのは、私たちが肉の支配の中にあった時、数々の罪深い情欲、すなわち(モーセの)律法によって力付けられた情欲が私たちのからだの部分の中で働いて、死のために実を結んでいました。
- しかし、私たちは、かつて私たちを拘束し続けていた律法に対して死んだので、今や、律法から解放されています。その結果、私たちは、文字による古い法則によってではなく、霊的な新しい法則によって(神に)仕えているのです。
- では何と言いましょうか。(モーセの)律法は罪*なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。しかし律法によらなければ、私は罪のなんたるかを知りませんでした。と言うのは、もし律法が、「貪るな」と言わなかったなら、私は貪り(の恐るべき力)を知らなかったでしょう。
- 罪は戒めによって機会を捕らえて、私の中にあらゆる欲情を造り出しました。と言うのは、律法がなければ罪は死*んでいるのです。
- すなわち私はかつて、律法なしに生*きていました。しかし戒めが来た時、罪が生き返りました。
- それで私は死*にました。そして、私は戒律、しかもいのちに導くはずの戒めが、実にそれが死に至らせるものであることが判りました。
- なぜならば、罪は戒めによって機会を捕らえ、私を騙したのです。そして、それ〔戒め〕によって私を殺したのです。
- とは言っても、(モーセの)律法は聖であり、また戒めも聖であり、正しく、また良いのです。
- では、この私にとって良いものが、死(の力)となったのでしょうか。絶対にそんなことはありません。そうではなくて、罪が、その良いものを通して、罪(のなんたるか)を明らかにするために死を働き出しているのです。すなわち、その戒めによって罪が極度に罪深いものとなるためでした。
- 私たちは、(モーセの)律法が霊的であることを知っています。しかし私は肉的です。そして、私は罪の下に(奴隷として)売られてしまっています。
- 実に、私は自分のしていることが分かりません。私は、自分が欲しているそのことを実行していません。しかも、私は自分の憎んでいることを行っています。
- しかし、実に私が、自分の欲していないことを行っているのですから、私は(モーセの)律法が正しいと認めていることになります。
- それで、今や(明らかです。)それを行っているのは、もはや私ではありません。実に、それを行っているのは私の内に住んでいる罪です。
- それで私は、私の中に──それは私の肉の中にですが──善が住んでいないことを知っています。(善を行いたい)意志は、いつも私の身近にあります。しかし善を行うことはありません。
- 私は自分が欲している善を行っていません。その反対に私が欲していない悪を、実に、それを実行しています。
- 実に、私が欲していないことを行っているのですから、そのことを行っているのはもはや私ではありません。しかし(それを行っているのは)私の中に宿っている罪です。
- それで、善を行うことを欲しているその私の中に、悪を行う原理〔法則〕が存在していることを発見しています。
- なぜならば、私の内なる人としては、神の律法に喜んで同意していますが、
- 私は、私の肢体〈複数〉の中に、私の心の法則に対して戦いを挑み続け、私の肢体の中にある罪の法則によって私を虜にし続ける、もう一つ別の法則(があること)を見つけています。
- ああ、私は、何と哀れな人間でしょうか。だれが私を、この死のからだから救い出し続けてくれるでしょうか。
- 私は、私たちの主イエス・キリストによって神に感謝します。それで、私自身としては、理性で神の法則に従っていますが、他方、肉では罪の法則に従っています。
- 7.*この「罪」は無冠詞で、「罪の力、罪の働き」を意味しています。
- 8.9.10.「死ぬ」と「生きる」は、日本語の意味とは異なります。「活力を失って動けなる」また「活力を得て元気になる」を意味しています。
- 7.*この「罪」は無冠詞で、「罪の力、罪の働き」を意味しています。
- 8.9.10.「死ぬ」と「生きる」は、日本語の意味とは異なります。「活力を失って動けなる」また「活力を得て元気になる」を意味しています。
8
- それで、今や、キリスト・イエスにある者たちに対しては、有罪の判決は全くありません。
- なぜならば、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則が、罪と死の法則からあなたを〈決定的に〉解放したからです。
- 実に律法のできなかったことを、(神は達成されました。)──それは、肉のゆえに律法が無力だったからです。──神がご自身の御子を、罪のからだに似た形で罪の(ためのいけにえとする)ために遣わされ、その(御子の)からだにおいて罪を処罰されたからです。
- その結果、肉にではなく、御霊(の助け)によって歩んでいる者である私たちによって、律法の(求める)義が(決定的に)達成されているのです。
- なぜならば、肉に属する者たちは肉に関することを思い続けていますが、しかし、(御)霊に属する者たちは御霊に関することを思い続けているからです。
- なぜならば、肉が思う事柄は死であり、御霊が思う事柄は、いのちと平安であるからです。
- それゆえ、肉の思うことは、神に対する敵対です。肉は神の律法に服従しないばかりか、服従できないのです。
- それで、肉にある者たちは、神を喜ばせることができません。
- 神の御霊があなたがたの中に住んでおられるので、あなたがたは肉の支配の中ではなく、御霊の支配の中にいます。誰でもキリストの御霊を持っていないなら、その人はキリストに属してはいません。
- キリストがあなたがたの中におられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても〈無力であっても〉、御霊が、義認の御業のゆえに(あなたがたの)いのち*です。
- イエスを死者たちの中からよみがえらせた御方の御霊が、あなたがたの中に住んでおられる以上、キリストを死者たちの中からよみがえらせた御方は、あなたがたの中に住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、必ず生かし続けてくださいます。
- *それで兄弟たちよ。私たちは、責任を負っている者ですが、肉の力によって肉に(支配されて)しか生きられないような負い目を、肉に負っている者ではありません。
- というのは、もしあなたが、今も肉の力で生き続けているのであれば、あなたは、今、死に向かっています〈救われていません〉。しかし、もしあなたが、からだの行動方針を御霊の力によって殺し続けているのであるならば、あなたはいつまでも生き続けます。
- なぜならば、全て神の御霊によって導かれている人々が、実にその人々こそが神の子どもであるからです。
- それで、あなたがたは、再びあなたがたを奴隷にして、恐怖を与える御霊を受けたのではありません。その反対に、あなたがたを神の嫡子にしてくださる御霊を受けたのです。その御霊によって、「アバよ。父よ。」と叫んでいます。
- この御霊ご自身、私たちの霊と共に、私たちが神の子どもであることを証言しておられます。
- 子どもである以上、実に世継ぎです。しかも、神の世継ぎであり、私たちがキリストと共に栄光にあずかるためにキリストと共に苦しんでいる以上、キリストとの共同相続人です。
- それゆえ私は、今の時の色々の苦しみを、私たちにやがて明らかにされる栄光と比較する値打ちさえもないものと考えています。
- 被造物は、切実な待望をもって、神の子どもたちの出現を待ち望んでいます。
- なぜならば、現在、被造物らは虚無に服させられていますが、それは被造物自身の意志にはよらず、彼らを服従させられた御方の目的によるのであるからです。従って彼らには(回復の)望みがあるのです。
- それで、被造物自身も、やがて、腐敗の奴隷制度から解放されて神の子どもたちの栄光ある自由に必ず入れられます。
- 私たちは全被造物が、この時に至るまで共にうめき、共に産みの苦しみを苦しんでいることを知っています。
- そして、それだけでなく、実に、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子どもとされること、すなわち私たちのからだが贖われることを切望しながら、心の中でうめいているのです。
- なぜならば、私たちは、この望みによって救われたのであるからです。しかし、見えている望みは望みではありません。誰でも見えていることをどうしてなおも望むでしょうか。
- 私たちは、見ていないものを望んでいるのですから、忍耐深く、熱心に待つべきです。
- それと同時に、実に御霊も私たちの弱さを助け続けておられます。私たちは実際に何をどのように祈るべきかを知りません。しかし御霊ご自身がことばにならない嘆息によってとりなしをしておられます。
- 私たちの)心の中を探索しておられる御方は、(私たちの)霊の思いが何であるかを知っておられます。それは、御霊が神(の御性質、御思い)に従って聖徒たちのためにとりなしをしておられるからです。
- 私たちは、神が、神を愛する者たちのために、神の目的に従って召されている者たちと共に、全てのことを益に向けて動かしておられることを知っています。
- なぜならば、神はあらかじめ選ばれた者たちを、ご自身の御子の姿に似るようにとあらかじめ定められたからです。それは御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
- そして、神はあらかじめ定められた者たちを召されました。彼ら、召された者たちを神は義と認められました。しかも彼ら、義と認められた者たちを、神は必ず栄光にあずからせられます。
- それでは、これらのことについて私たちは何と言いましょうか。神が私たちの味方であられるからには、だれが私たちに敵対できるでしょうか。
- ご自分の御子を惜しまず、むしろ、私たち全てのために、ご自分の御子を(死に)渡されたほどの神が、どうして御子と共に全てのものを私たちに賜らないことがあり得るでしょうか。
- 神によって選び出された者たちを、責めることができる者がいますか。神が、(私たちを)義と認めてくださったのです。
- (私たちを)さばく者は〈さばき得る者は〉だれですか。キリスト・イエスは(一度)死なれました。そしてさらに、よみがえらされました。実に、この御方が、神の右に座しておられます。そして、私たちのためにとりなしをし続けておられます。
- 私たちをキリストの愛から切り離すことができる者がいるでしょうか。困難、あるいは困窮、又は迫害、あるいは飢饉、裸、危険、あるいは剣ですか。
- (私たちの状態は)次に書かれてあるとおりです。「あなたのために私たちは一日中、殺されています。私たちは屠殺場の羊と(同じに)見なされました。」
- しかしこれらのことにおいても私たちは、私たちを愛してくださった御方を通して圧倒的に勝利しています。
- それゆえ、私は、死もいのちも、御使いらも権威ある者らも、今あるものも後に来るものも、力ある者らも、
- 高さ〔高位に座する者ら〕も、深さ〔ごく下位の者ら〕も、あるいはどのような被造物も、私たちを、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から引き離すことは決してできないと確信させられています。
- 10.*この「いのち」は無冠詞で、「いのちの力、活動力」を意味します。
- 12.*別訳:「肉に支配されて生き続けなければならないような義務を肉に負っていません」
- 25.*「待つべきです」は現在時制で、「待っています」とも訳せますが、文脈によって「待ちなさい」と軽い命令とも取ることができます。
- 30.*「必ず栄光にあずからせる」のように、未来に必ず実現するある事実を強く意味するアオリスト時制の用法です。決して「栄光にあずからせました」と過去を意味していません。
- 10.*この「いのち」は無冠詞で、「いのちの力、活動力」を意味します。
- 12.*別訳:「肉に支配されて生き続けなければならないような義務を肉に負っていません」
- 25.*「待つべきです」は現在時制で、「待っています」とも訳せますが、文脈によって「待ちなさい」と軽い命令とも取ることができます。
- 30.*「必ず栄光にあずからせる」のように、未来に必ず実現するある事実を強く意味するアオリスト時制の用法です。決して「栄光にあずからせました」と過去を意味していません。
9
- 私はキリストにおいて真実を語っています。私は偽りを言っていません。聖霊によって私の良心も私に(このことを)証言しています。
- 私に大きな悲しみ、しかも私の心に絶え間のない痛みがあることを。
- 私は、私の兄弟たち、すなわち肉による私の同族のためならば、キリストから捨てられた者となることさえ願っていたのです。
- 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、モーセの律法も、礼拝も、約束も彼らのものです。
- 族長たちも彼らのものであり、そして肉によれば、キリスト、すなわち全ての者の上におられ、永遠に誉め讃えられるべき神でいますキリストも、彼らから出られました。アーメン。
- それでも、神の約束が無効になってしまっているというようなことは決してありません。それは、イスラエルの全てがイスラエル人ではないからです。
- アブラハムの子孫であるからといって、全てが(彼の)子どもであるのではないのです。すなわち、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」のです。
- 肉の子どもが神の子どもではなく、約束の子どもが子孫として認められるのです。
- 約束のみことばはこれです。「この季節に私は必ず来ます。サラには男の子が必ずいます。」
- 彼女だけでなく、私たちの父イサクひとりによって身ごもったリベカもです。(子どもたちが)まだ生まれてもおらず、まだ良いことも悪いことも何もしていないのに、神の選びによる、前もっての神の御決定が、(人間の)働きにはよらず、(神の)召しによることが確立するようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられました。
- *次のように記されています。「わたしはヤコブを愛したが、エサウを憎んだ。」
- では私たちは何と言いましょうか。神の側に不正があるのでしょうか。絶対にそうではありません。
- 神はモーセに、「わたし自身が憐れもうと決めた全ての者に、わたしが憐れみを示し、わたし自身が情けをかけようと決めた全ての者に、わたしが情けを示す。」と語っておられます。
- それですから、それは求める者、努力する者〈走る者〉の意欲によらず、ただ神の憐れみによるのです。
- それで、聖書はパロに対しても、「実にこのことのためにわたしはお前を起こした。お前によってわたしの力を証明するためである。そして世界の全てのところでわたしの名を広く知らせるためである。」と語っています。
- そのために、神は、ご自身で憐れみを示そうと決められた者に対して憐れみを示され、頑なにしようと決められた者を頑なにされるのです。
- それで、あなたは私に、「神はどうして人を責めることができるのですか。なぜならば、神の決定にはだれも抵抗できないからです。」と言うでしょう。
- ああ人間よ。それよりも、神に言い逆らうあなたは、自分がいったい何であるのかを考えてください〔人間にすぎないではないですか〕。陶器が陶器師に向かって、「なぜ私をこのように作ったのか。」と言えるでしょうか。
- それとも陶器師は同じ粘土の固まりから、高貴な器でも、卑しいことに用いる器でも作る権限を持っていないのでしょうか。
- 神は、怒りを現してご自身の力を示そうとされながらも、破滅に確定されている怒りの器に対するさばきを、大いなる忍耐をもって引き延ばされたのです。
- しかも、それは、神がご自分のご栄光を現すために用いようと前もって備えておられた憐れみの器に対して、ご自分の栄光の豊かさを知らせるためであったのです。
- その憐れみの器として神は、私たちをユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも、選び出されたのです。
- 実に、それは、ホセア書の中でも神が語っておられるとおりです。
「わたしは、わたしの民ではない者をわたしの民と呼ぼう。そして(わたしに)愛されたことがなかった者たちを愛されている者たちと呼ぼう。 - そして人々に対して、『お前たちはわたしの民ではない。』と語られた所で、その人々が、生ける神の子どもたちであると呼ばれるようになる。」
- イザヤはイスラエルのために次のように叫んでいます。
「たとい(背信の)イスラエルの民の数が砂の数のように多かろうとも、残された者が救われる。 - 主は地上に約束を全て成就し、速やかに実現しようとしておられる。」
- また、次のようにイザヤは前から語っています。
「もし万軍の主が私たちに子孫を残してくださらなかったならば、私たちはソドムのようになってしまったはずであり、ゴモラと同じようになってしまったはずである。」 - 私たちは何と言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち信仰に基づく義認を得ました。
- しかし、義の律法を追い求めているイスラエルは律法(の目的)に達しませんでした。
- どうしてでしょうか。それは信仰に基づく(義認)ではなくて、働きに基づく(義)を(求めたからです)。彼らはつまずきの石を蹴って倒れたのです。
- それは、次のように記されているとおりです。「見よ。わたしはシオンにつまずきの石、障害の岩を置いている。しかし、それに信頼する者が辱められることは決してない。」
- 11.*この節は「わたしは、エサウよりもヤコブを一層愛する」を意味しています。
- 11.*この節は「わたしは、エサウよりもヤコブを一層愛する」を意味しています。
10
- 兄弟たちよ。彼らのための私の心からの願望、また神への嘆願は、彼らが救いに至ることです。
- 確かに彼らが神のことに関して熱心であることを、私は彼らのために証します。しかし彼らの熱心は深い知識に基づくものではありません。
- 彼らは神の義を知らずに、しかも自分自身の義を立てることを追求し続けているために、神の義に服従していません。
- 実に、信じる全ての者にとって、(信じる者を)義としてくださるキリスト(の御業)は、律法の(役目の)完全な終了なのです。
- なぜならば、モーセは、律法に基づく義について、それら〈戒律〉を守ることを生活の原則としている*人は、それら〈戒律を守ること〉によって生き続けなければならない**と書いているからです。
- しかし、信仰による義認は、このように語っています。「あなたは(自分の)心の中で、誰が(信仰に基づく義認の真理を取って来るために)天に上るだろうかと言ってはならない。」それ〈義認の真理〉は、すでにキリストが持って来てくださっているのです*。
- またあるいは、「誰が(義認の真理を取って来るために)黄泉に下るだろうかと言ってはならない。」それは〈義認の真理は〉、すでにキリストが死人の中から持ち上げてくださっているのです*。
- では、それ〈聖書〉は何と語っているでしょうか。「ことば〈信仰告白〉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」と。すなわち、それは、私たちが宣べ伝えている信仰告白のことです。
- すなわち、もしあなたが、口でイエスを主として告白し、あなたの心で、神が彼〈キリスト〉を死者たちの中からよみがえらされたことを信じるならば、あなたは救われます。
- 人は心で信じて義認に至り、口で告白して救いに至ります。
- 聖書は、「彼〈キリスト〉を信じる者は全て、辱められることは決してない。」と語っています。
- それはユダヤ人とギリシア人の差別はないからです。なぜならば、キリストは全ての者の主であられ、主を呼び求め続ける全ての者に対して(恵み)豊かであられるからです。
- 実に、誰でも主の御名を呼び求める者は、みな救われます。
- それで、(次のように反論する者たちもあるでしょう。)「どうして人はまだ信じたことのない方を呼び求めるでしょうか。またどうして人はまだ聞いたことのない方を信じるでしょうか。どうして宣べ伝えられることなしに聞くことができるでしょうか。
- *さらに、『良きおとずれを宣べ伝え続けている者の足は何と美しい。』と書かれてあるとおり、だれも遣わされなければ、宣べ伝えることはしないのではないですか。
- しかも、全ての者が福音に従ったのではありません。イザヤは次のように語っています。『主よ。私たちの宣言を誰が信じましたか。』
- それで、信仰は聞くことの結果です。そして、その聞くことはキリストに関することばを聞くことです。」
- しかし私は尋ねます。「(本当に)彼らは一度も聞いたことが無かったのですか。」と。いいえ、それどころか、「地の全ての所に向けて、彼らの声は出て行った。そして国の端に至るまで彼らのことばは出て行った。」(と聖書は語っています。)
- なお私は言います。「本当にイスラエルは知らなかったのですか。」と。まずモーセは、「わたしは(わたしの)民でない者たちによってあなたがたのねたみを引き起こそう。無知な民によってあなたがたを怒らそう。」と言っています。
- イザヤは大胆に語り、「わたしはわたしを探していない者たちによって見出された。わたしを尋ねない者たちに(わたし自身を)明らかにした。」と言っています。
- それで、イスラエルに対して彼は、「一日中、わたしはわたしの手を不従順で反抗する民に向けて伸ばしていた。」と語っています。
- 5.*「守ることを生活の原則としている」の原語は「それらを行う(アオリスト時制)」ですが、「それら」とは、文脈から、戒律を守る努力のことであり、アオリスト時制の「行う」は、「行うことを決めてしまっている」ということを意味しています。それで、直訳にしますと、日本語にならないので、このように訳しました。
**「生きる」の命令を意味する未来時制です。 - 6.7.*「それは、すでにキリストが持って来てくださっているのです」と「それは、すでにキリストが死人の中から持ち上げてくださっているのです」は、伝統的な訳とは異なっています。伝統的な訳でも、文法的には可能ですが、意味は全く不明です。しかし、この書の訳は文法的にも全く問題なく、意味上も正しいのです。
- 15.*この一連の反論の終わりに「一度も福音を聞かされなかったために、信じることができなかった者が、キリストを信じていなかったからといって、死んでから地獄に行くということはおかしい」という愚論が、パウロの時にすでにあったことを示唆しています。
- 5.*「守ることを生活の原則としている」の原語は「それらを行う(アオリスト時制)」ですが、「それら」とは、文脈から、戒律を守る努力のことであり、アオリスト時制の「行う」は、「行うことを決めてしまっている」ということを意味しています。それで、直訳にしますと、日本語にならないので、このように訳しました。
**「生きる」の命令を意味する未来時制です。 - 6.7.*「それは、すでにキリストが持って来てくださっているのです」と「それは、すでにキリストが死人の中から持ち上げてくださっているのです」は、伝統的な訳とは異なっています。伝統的な訳でも、文法的には可能ですが、意味は全く不明です。しかし、この書の訳は文法的にも全く問題なく、意味上も正しいのです。
- 15.*この一連の反論の終わりに「一度も福音を聞かされなかったために、信じることができなかった者が、キリストを信じていなかったからといって、死んでから地獄に行くということはおかしい」という愚論が、パウロの時にすでにあったことを示唆しています。
11
- それで、私は言います。「神は御自分の民を、御自分で拒絶してしまわれたのではないでしょうか。」決してそうではありません。私もイスラエル人です。アブラハムの種から出た者であり、ベニヤミンの族に属しています。
- 神があらかじめ選ばれた御自分の民を捨てたことはありません。それともあなたは聖書がエリヤの箇所で何と言っているかを知らないのですか。彼はイスラエルに対立して神に訴えました。
- 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺しました。あなたの祭壇をくつがえしました。そして私はただ一人残されました。さらに彼らは私のいのちを求めています。」
- しかし、神は彼に答えて何と語られたでしょうか。「わたしはわたし自身のために、バアルにひざまずかなかった者七千人を残しておいた。」
- 今の時も同じです。恵みによって選ばれた者らが残されています。
- 恵みによるのであれば、もはや働きによるのではありません。そうでなければ、恵みは、もはや恵みではなくなります。
- それでは何でしょうか。イスラエルは追求しているものを獲得していません。しかし、選ばれた民が獲得しました。その他の者たちは、心が頑なにされました。
- 次のように書かれているとおりです。「神は彼らに深い眠りの霊、見えない目、聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」
- そしてダビデは次のように語っています。
「彼らの食卓は、彼らにとって、罠、網、つまずき、報復になれ。 - 彼らの目は暗くされ、見えなくなれ。そして、(神よ。)彼らの背を低く屈ませてください。」
- しかし、私は言います。彼らはつまずいて、もう起き上がれないのでしょうか。絶対にそんなことはありません。彼らの脱落によって、救いが異邦人たちに及びました。それは彼らのねたみを引き起こすためでした。
- しかし、彼らの脱落が世界の富になり、彼らの失敗が異邦人の富になったのですから、彼らの(ための神の約束の)成就はどれ程の富となることでしょうか。
- それで、私は、異邦人であるあなたがたに言います。私自身が異邦人のための使徒であるのでなおのこと、──私は私の務めを光栄と思っています。──
- 私は、どうにかして私の骨肉〈同胞〉を奮起させて、彼らの中から幾人かを救いたいのです。
- なぜならば、彼らの捨てられたことが(異邦人)世界の(神への)和解(の機会となったのですから)、ましてや彼らが(神によって)受け入れられることは、死人の中からの復活でなくて何でしょうか。
- 初穂が聖いならば、(それからできた)その粉の塊も聖いのです。また木の根が聖いならば、その枝も聖いのです。
- その(木の)枝のいくらかが切り取られたので、野生のオリーブのようなあなたがその枝の間に接ぎ木されて、そのオリーブの木の根と滋養にあずかるようになったのですから、
- その枝に対して誇ってはなりません。たとい誇っても、あなたが根を支えているのではありません。根があなたを支えているのです。
- それでもあなたは、「私が接ぎ木されるために枝が切り取られたのだ。」と言うかも知れません。
- そのとおりです。彼らは、不信仰のゆえに切り取られました。しかし、あなたは、今、信仰によって立っています。高慢になってはいけません。むしろ(自分のために)気を付けていなさい。
- 神は元の木から生えた枝を惜しまれなかったのですから、どうしてあなたを惜しまれるでしょうか。
- ですから神の慈愛と厳しさとを見なさい。峻厳さは倒れた者たちの上に(あります)。しかし、他方、あなたの上には、あなたが神の慈愛に留まり続けるならば〔それを条件として〕、神の慈愛が(あります)。もし、そうしなければ直ちにあなたも切り取られます。
- それで、もし彼らも不信仰に留まり続けなければ、接ぎ木されます。それは、神が彼らを再び接ぎ木できるからです。
- なぜならば、あなたが、自然のままの野生のオリーブの木から切り取られ、栽培されたオリーブの木に、自然に反して接ぎ木されたのですから、本来の枝は、はるかに容易に元の木に接ぎ木されるからです。
- ですから、兄弟たちよ。私は、あなたがたがこの奥義について無知であって欲しくありません。それはあなたがたがうぬぼれないためです。なぜならば、部分的にイスラエルに頑迷さが生じてしまっているのは、異邦人の(ための神のご計画の)成就が到来するまでであるからです。
- そして、そのようにして、(その後、)全てのイスラエルは必ず救われるのです。ですから、次のように書かれています。「シオンから救う者が来る。彼はヤコブから不敬虔を取り去る。
- これが彼らのためのわたしからの契約である。その時わたしは彼らから罪を取り除く。」
- それで、福音によると、(彼らは)あなたがたのゆえに(今は神の)敵ですが、他方、選びによると(彼らは)先祖たちのゆえに(神に)愛されています。
- 神の恵みによる賜物と召しに、変更はありません。
- あなたがたは以前、神に不従順でした。しかし今、あなたがたは、これらの人々の不従順のゆえに、憐れみを受けています。
- そのように、今、この人々はあなたがたの(受けた)憐れみのゆえに不従順になっています。しかし、それは、彼らもやがて、必ず憐れみを受けるためなのです。
- なぜならば、神は、全ての者を憐れむために、全ての者を不信仰の中に閉じ込められたのだからです。
- ああ、何と神の知恵と知識の富は深いことでしょうか。何と神のご判断は探究し難く、何と神の道は測り難いことでしょうか。
- だれが主の心を熟知し得たでしょうか。あるいは、だれが神の相談役になり得たでしょうか。
- あるいは、だれが神に前もって与え、その報酬を受けることができるでしょうか。
- なぜならば、万物は、神から発し、神によって成り、神のためにあるからです。この神に栄光が永遠から永遠にわたってありますように。アーメン。
12
- ですから、兄弟たちよ。あなたがたのからだを、神に喜んでいただける、生きている聖なるいけにえとして神にささげるように、神の憐れみのゆえにあなたがたにお願いします。それこそがあなたがたの思慮ある礼拝です。
- そして、あなたがたは、この時代の形に同化させられて*いてはいけません。むしろ、あなたがたは思考の方向を完全に新たにすることによって、自分自身を変えられ続けなさい**。そうすることによって、神のみこころがどのようであるかを、すなわち神のみこころこそ善であり、かつ喜ばしいものであり、完全であるということを実証し続けなさい。
- 私は、私に与えられている恵みによってあなたがたの間にいる全ての方々に言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各々に、決められた信仰の量を分け与えておられるのですから、思慮深さを表すように心掛けなさい。
- 丁度、私たちが一つのからだの中に多くの部分を持っていても、全ての部分が同じ働きを行っていないように、
- 私たちも大勢ですがキリストにあって一体であり、各々互いがその部分であるのです。
- 私たちは、恵みによる種々の賜物を(神から)与えられて持っているのですから、預言(の賜物)であれば、信仰の割合に従って(預言しなさい)。
- 奉仕の働きも(与えられた)奉仕の力の範囲内で、教える者は(与えられた)教える力の範囲内で、
- 励ます者であれば、(与えられた)励ましの力の範囲内で(行いなさい)。分け与える者は惜しみなく、指導する者は熱心に、憐れみを示す者は喜びをもって。
- 愛は偽りのないものを。悪を忌み嫌い続け、善には執着し続けることを。
- 相互への兄弟愛については、家族的な暖かい愛をもって、相互への尊敬に関しては、他人を常に優先させ、
- 熱心の点では、臆することなく、霊に関しては熱く燃え続け、主に仕え続け(なさい)。
- 希望をもって喜びつつ、苦境にあっては忍耐深く、祈りにおいては根気よく継続して(行いなさい)。
- 聖徒の中の貧しい者たちとは、同情心をもって分かち合い続け、親切を示す機会を熱心に探し続けなさい。
- 迫害する者たちを祝福し続けなさい。祝福し、呪ってはいけません。
- 喜んでいる者たちと共に喜んでいなさい。泣いている者たちと共に泣いていなさい。
- お互いのために思いを一つにしなさい。高ぶってはいけません。むしろ自分自身を身分の低い者たちに喜んで同調させなさい。自分を人に賢い者と思わせようとしてはいけません*。
- 誰に対しても、悪に悪をもって報いてはいけません。全ての人の前に自分自身の良き姿を見せることができるように努めなさい。
- でき得る限り、あなた自身に関して、全ての人との平和を求めなさい。
- 愛する者たち。自分で復讐してはいけません。むしろ(神の)怒りに場所を与えなさい。次のように書かれてあるからです。「復讐することは私に(属する)。私が報いる、と主が言われる。」
- ですから、もしあなたの敵が飢えているなら、彼に食べさせなさい。もし彼が渇いているなら、彼に飲み物を与えなさい。それは、そのようにすることによって、あなたは彼の頭の上に燃えている炭を積み上げることになるからです。
- 悪によって征服されてはいけません。むしろ善をもって悪に勝利し続けなさい。
- 2.*「同化させられて」:συσχηματίζεσθε(内部の本質に反してでも外形だけを外界のファッションに合わせること。)**「変えられなさい」:μεταμορφοῦσθε(内部の本質を忠実に表現する姿を装うこと。)
- 16.*直訳:「自分を自身より賢い者と思わせてはなりません」
- 2.*「同化させられて」:συσχηματίζεσθε(内部の本質に反してでも外形だけを外界のファッションに合わせること。)**「変えられなさい」:μεταμορφοῦσθε(内部の本質を忠実に表現する姿を装うこと。)
- 16.*直訳:「自分を自身より賢い者と思わせてはなりません」
13
- 全ての人は、上に立つ権威に自ら服従すべきです。なぜならば、神によらない権威はなく、今ある権威は神によって立てられているのであるからです。
- それで、権威に反対している者は、神の制度に対して逆らっているのです。(権威に対して)自ら反抗する場に立っている者たちは、必ず自分自身にさばきを招きます。
- 権威は良い働きをする者にとっては恐怖ではなく、悪を行う者にとっては恐怖です。それではあなたは、権威を恐れることなく過ごしたいですか。ならば、善を行い続けなさい。そうすれば、あなたは彼から誉れを得ます。
- なぜならば、彼は、あなたにとって、善行に至らせる神のしもべであるからです。それで、もしあなたが悪を行い続けているならば、恐れていなさい。彼は無駄に剣を帯びてはいません。なぜならば、彼は、悪を行う者の上に怒りを下す神のしもべであるからです。
- そのゆえに、あなたがたは、自ら従順になる必要があります。それは(神の)怒り(を恐れること)のゆえだけでなく、(あなたがた自身の)良心のためにもです。
- このことのゆえに、あなたは税金を払いなさい。なぜならば、彼が神の公務員であり、実にこの務めのために励み続けているのであるからです。
- 全ての者に果たすべき義務を果たしなさい。税を払うべき者には税を、賦課金を払うべき者には賦課金を、敬意を示すべき者には敬意を、尊敬を払うべき者には尊敬を払いなさい。
- だれにも、お互いに愛し合うこと以外に、どんな負債をも負ってはいけません。他人をいつも愛している人は、戒めを全うしているのです。
- それは、姦淫を犯すな、殺すな、盗むな、貪るな、またその他、ことば〔律法〕の中に、どのような戒めがあっても、このことば、すなわち、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」に要約されているからです。
- その愛は隣人に悪を働きません。ですから愛は戒めの完成です。
- あなたがたは、その時を知っています。今は、すでに、あなたがたが眠りから目を覚ますべき時です。今は、私たちが信じた時よりも、もっと救いが私たちの近くに来ています。〔間近です。〕
- 夜は進みました。昼〈夜明け〉は近づいています。〔間近です。〕ですから、闇の働きを直ちに捨て去りましょう。そして光の武器を直ちに身に付けましょう。
- 昼間の者として、美しく歩む者になると心を決めようではないですか。決して、浮かれ気分、酒酔い、性的不品行、無軌道、争い、ねたみで歩んではなりません。
- むしろ、主イエス・キリストを直ちに着なさい。そして情欲に引き込まれないように、肉的なことに心を用いていてはいけません。
14
- 信仰(の知識)において不安定でいる者を広い心で受け入れてあげ、決して(その人の)考えを批判的に分析することをしていてはいけません。
- ある人は何でも食べても良いと信じていますが、他方、ある人は、不安定であるために菜食にこだわっています。
- 肉を)食べている人は(肉を)食べていない人を馬鹿にするような態度を取るのを止めなさい。(肉を)食べない人は食べている人をさばくのを止めなさい。神がその人を快く受け入れてくださっておられるのですから。
- 他人のしもべを批判しているあなたは何者ですか。人が立つのも倒れるのも、その人自身の主によります。しかし彼は立つでしょう。それは主が彼を立たせることができるからです。
- ある人は日と日とを(分けて)判断します。しかし一方、他の人は全ての日を(同じと)判断します。各々は、自分の確信を自身の主張の範囲内に留めて置きなさい*。
- 日を重んじている人は主のために重んじています。(肉を)食べている人は主のために食べています。なぜならば、その人は神に感謝しているからです。そして(肉を)食べない人は主のために食べません。そしてその人は神に感謝しています。
- なぜならば、私たちの中の一人も自分自身によって生きている者はなく、また一人も自分自身によって死ぬ者もないからです。
- それで、もし私たちが生きているならば、主によって生きています。もし死ぬならば主によって死ぬのです。ですから私たちは、生きるにしても死ぬにしても、主のものです。
- キリストは、死んでいる者と生きている者の主となるために、実にこのことのために死なれ、またよみがえられたのです。
- あなたは何故あなたの兄弟をさばいているのですか。またあなたは、何故あなたの兄弟を軽蔑しているのですか。実に、(私たちの)全ては、やがて神の審判の前に立たなければならないのです。
- 次のように)書かれています。「わたしは生きていると主が言われる。全ての膝はわたしに向かって曲げられ、全ての舌は、神に向かって告白するようになる。」
- それですから、私たちの一人ひとりは自分自身についての報告書を神に提出しなければならないのです。
- ですから今後、私たちはお互いをさばき合うことを止めましょう。むしろ兄弟の前につまずきとなるもの、あるいは誘惑になるものを置かないと決断しなさい。
- 何一つ、それ自体で(儀式的に)汚れているものはないと、しかも汚れていると考える人にとって汚れているだけであると、私は主イエスにあって知っており、また十分に確信しています。
- それで、もし、食物のゆえに、あなたの兄弟が悲しまされているならば、あなたはもはや愛によって歩んではいません。あなたの食物によって兄弟を滅ぼしてはなりません。その兄弟のためにもキリストは死なれたのです。
- それですから、あなたの良いと(確信している)ことが、(あなたの思慮に欠けた主張によって)非難されることがないように気を付けていなさい。
- というのは、神の国は食べたり飲んだりの性格のものではなく、聖霊の力による義と平和と喜びという性格のものであるからです。
- この(方針)によってキリストに仕えている人は、神に大いに喜ばれており、人々にとっても有益な人です。
- ですから、そこで、平和に関係する物事を、また徳を高めることに関係すること、すなわちお互いの利益になることを熱心に求めましょう。
- 食物のことで神の御業を破壊し続けてはいけません。実際に全てのものは聖いのです。しかし、人をつまずかせるような方法で食べている人にとって悪であるのです。
- あなたの兄弟がつまずかないようにという理由で、肉を食べず、酒も飲まないことは立派です。
- あなたは自分が持っている信仰(の知識)を神の前で自分自身の範囲内で保っていなさい。自分が正しいと知って確認していることで、自分自身をさばく必要のない人は、霊的に祝福されています。
- (食べて良いか悪いか)迷っている者が、もし食べるならば、さばかれています。なぜならば、(それが)信仰に基づいていないからです。全て信仰に基づいていないものは罪です。
- 5.*直訳:「各々は、自分自身の主張の範囲内で確信していなさい」
- 5.*直訳:「各々は、自分自身の主張の範囲内で確信していなさい」
15
- 私たち強い者は、力の弱い人たちの弱さを担ってあげる責任を負っています。そして、私たち自身を喜ばせていてはいけません。
- 私たちの一人ひとりは、徳を高めるために有益なことを行って隣人を喜ばせるべきです。
- なぜならば、キリストでさえご自分を喜ばせられなかったからです。それは、「あなたを非難する者たちの非難が私の上に降りかかった。」と書かれているとおりです。
- すなわち、昔書かれたものは全て、私たちを教えるために(書かれたのです)。それは聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちに希望を与えるためです。
- 忍耐と励ましの神が、キリスト・イエスに基づいてお互いの心の中に、同じ思いを与えて下さいますように。
- それは、あなたがたが心を一つにして、声を合わせ、私たちの主イエス・キリストの神であり父であられる御方を誉め讃え続けるためです。
- ですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも自らお互いを受け入れ合い続けなさい。
- なぜならば、私は言います。キリストが、神の真理の利益のために、割礼の人々の奉仕者になられたからです。それは、先祖たちに与えられている約束の成就のためであり、
- また、異邦人も、恵みの証のために、神を誉め讃える者となるためです。それは、次のように記されているとおりです。「このことのゆえに、私は異邦人の間にあって、あなたを公に告白します。そしてあなたの御名に賛美をささげます。」
- そして再び聖霊は語っておられます。「異邦人よ。主の民と共に喜べ。」
- さらに、「全ての異邦人よ。主を誉め讃えよ。諸国の民よ。直ちに主を賛美せよ。」
- 再びイザヤは語っています。「エッサイから根が出る。すなわち異邦人を治めるために立ち上がる方である。その方に異邦人は望みをかける。」
- どうか、望みの神が、信仰の働きの分野において、あなたがたをあらゆる喜びと平安によって満たしてくださいますように。そうなることによって、あなたがたが、聖霊の力によって、望みに満ち溢れさせられるためです。
- 私の兄弟たちよ。私は、私自身に関する限り、あなたがたについては次のように確信しています。あなたがたはあらゆる善意に満たされており、十分な知識に満たされ、お互いに矯正し合う力を持っているということを。
- それで、私はあなたがたに、ある部分、思い切って大胆に書きました。それは、神が私にどのような恵みを与えてくださっておられるかを、あなたがたに思い出していただくためです。
- すなわち、その恵みによって、私が、異邦人のためにキリスト・イエスの奉仕者にならせられ、異邦人を、聖霊によって聖められた、神に喜んで受け入れられるささげ物としてささげるために、神の福音に祭司として仕えていることを思い出していただきたいのです。
- ですから私は、神への奉仕に関する事で、キリスト・イエスにあって大きな喜びを持っています。
- ですから、私は、キリストがご自分のために、私を通して、ことばと働きによって、しるしと奇蹟の力によって、すなわち御霊の力によって異邦人を従順にならせるために成し遂げてくださったこと以外は、あえて何も語ることはしません。
- 神は、私をお用いくださって、エルサレムからイルリコの近辺に至るまでキリストの福音を満たしてしまわれました。
- 私は、他人が据えた土台の上に建てないように、未だキリストの御名が知られていない所に福音を宣べ伝えようと全力を尽くしてきました。
- それで、次のように書かれています。「彼について知らされなかった者たちが見るようになる。聞いたことがない者たちが、悟るようになる。」
- 実にこのゆえに、私は何回も、あなたがたの所に行こうとしたのですが、その都度妨げられて来ました。
- しかし、もはやこれらの地方には場所がありません。また数年前から、あなたがたのところに行く強い願望を持っています。
- それで、私は、スペインに行くことが許されたときには必ず、あなたがたの所に立ち寄り、あなたがたに会い、まずあなたがた(との交わり)によって、たとい少しでも(心が)満たされてから、あなたがたによってかの地に向けて送り出されることを望んでいます。
- しかし今、私は聖徒たちに奉仕するためにエルサレムに行こうとしています。
- なぜならば、マケドニアとアカヤ(の人々)が、エルサレムにいる聖徒たちの中の貧しい者たちにいくらかの醵金をすることを喜びと考えたからです。
- 彼らはそれを喜びと考えましたが、実に、彼らは彼ら〔エルサレムにいる聖徒たち〕に負債があるのです。異邦人たちは彼らから霊的な祝福にあずかったのですから、実に彼らは肉のものをもって彼らに奉仕する負い目があります。
- それで、このことを完成させて、そしてこの果実を彼らに届け終えてから、私はあなたがたの所を通って、スペインへ行くことになります。
- 私は、私があなたがたの所に行く時は、必ずキリストからの祝福で満たされて行くことになることを知っています。
- そこで、兄弟たちよ。私は、私たちの主イエス・キリストのゆえに、また御霊による愛のゆえに、あなたがたが私のために神に祈ることによって、私と共に奮闘してくださるようにお願いします。
- それは私が、ユダヤにいるあの不信仰な者たちから解放され、エルサレムのための私の奉仕が聖徒たちに喜んで受け入れられるものとなるためです。
- またそれは、私が神の御旨によってあなたがたの所に喜びをもって来ることができ、あなたがたと共に元気を取り戻したいからです。
- 平和の神があなたがた全てと共にいてくださいますように。アーメン。
16
- さて私は、私たちの姉妹であり、ケンクレアの執事であるフォイベをあなたがたに推薦します。
- あなたがたは彼女を、(あなたがたが)聖徒であるにふさわしく主(の御名)において迎えてください。彼女があなたがたから得る必要のあるあらゆる行為をもって彼女を助けてください。それは彼女が多くの人を助け、また実に私をも助けてくれたからです。
- キリスト・イエスにある私の同労者たち、プリスカとアクラによろしく。
- 彼らは私のいのちを救うために自分の首を差し出しました。彼らには、私だけでなく、異邦人の教会の全ての者が感謝しています。
- また彼らの家にある教会にもよろしく。私の愛するエパネトによろしく。彼はキリストのためのアジアの初穂です。
- あなたがたのために多くのことに労苦したマリヤによろしく。
- 私の同族*であり、共に牢に入れられたことのあるアンドロニコとイオーニアによろしく。彼らは使徒たちの間で名が知られています。実に彼らは私より先にキリストにある者となったのです。
- 主にあって私の愛するアンプリアトによろしく。
- キリストにある私たちの同労者ウルバノと私の愛するスタキスによろしく。
- キリストにあっての、(その練達振りが)認められているアペレによろしく。アリストブロの家族の者たちによろしく。
- 私の同族*のヘロディオンによろしく。ナルキッソの家の者で主にある人々によろしく。
- 主にあって労し続けているツルファイナとツルフォーサによろしく。主にあって多くのことに苦労した愛するペルシスによろしく。
- 主にあって選ばれたルポスと、また彼と私との母によろしく。
- アスンクリプト、フレゴン、ヘルメス、パトローバ、ヘルマスに、また彼らと共にいる兄弟たちによろしく。
- フィロロゴスとイウーリアとネレウスと彼の姉妹に、またオルンパと彼らと共にいる全ての聖徒たちによろしく。
- 聖なる口づけをもってお互いに挨拶を交わしなさい。キリストに属する全ての教会があなたがたによろしくと言っています。
- 私の兄弟たちよ。分裂を造ったり、あなたがたがすでに学んだ教えとは異なる、つまずきとなるものを教えたりする者どもに気を付けるようにお願いします。そのような者たちから離れていなさい。
- そのような者たちは、私たちの主キリストに仕えておらず、自分自身の腹に仕えているのです。そして上手な口調と麗しいことばで、単純な者たちの心を惑わしています。
- しかし、あなたがたの従順さは、全ての人の耳に届いています。ですから私はあなたがたのゆえに喜んでいます。それで、私はあなたがたが善に対しては賢く、悪に対しては純潔であることを願います。
- 平和の神が、すみやかにあなたがたの足で、サタンを踏み砕いてくださいます。私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたと共にありますように。
- 私の同労者テモテがあなたがたによろしくと言っています。また私の同族*であるルキオとヤソンとソーシパテロがあなたがたによろしくと言っています。
- 主にあってこの手紙を筆記している私、テルティオ自身があなたがたに挨拶を送ります。
- 私と全教会の家主ガイオがあなたがたによろしくと言っています。市の収入役エラストと(彼の)兄弟クワルトがあなたがたに挨拶を送っています。
- (なし)
- 私の福音と、またイエス・キリストご自身の宣教活動によって、永遠の昔から世々隠されていたが、今や、(人々を)信仰の従順に至らせる神の永遠の命令に従って、預言者らの書を通してあらゆる国々に明らかにされた奥義に従ってあなたがたを堅く立たせることができる御方、唯一の知恵ある神に、イエス・キリストを通して栄光が永遠から永遠に至るまでありますように。アーメン。
- 7.11.21.*「同族」はおそらくベニヤミン族のこと。
- 7.11.21.*「同族」はおそらくベニヤミン族のこと。